あなたにシャロームを (下)


                                              
                                          詩編76篇1-13節
 
                                 (4)
  さて、地の貧しいものに対する救いが語られた後、11節は、「怒り猛(たけ)る者もあなたを認める。あなたが激しい怒りの名残を帯とされるとき」といいます。この詩編の中心はここにあります。だが、意味はこのままだとボーっとしてよく分かりません。

  神は怒った後も、怒りの名残を残されるのでしょうか。確かに、いつまでも怒っている人があります。いつまでも口の聞かない妻とか、夫とか。それは自分であったりします。扉をバタンと閉めて怒りの名残を残したり…。犬の派手なケンカは最近なくなりました。昔はよくありました。ワン、ワンと吠えて噛み付いて、暫く噛み付き合った後、離れます。ところが体が硬くなって、お尻を向け合って硬直して突っ立っています。顔はキバをむいたまま突っ立っているんです。あれも怒りの名残でしょうね。

  冗談はそこまでにして、ある注解書はこの11節の元の意味は、「神の怒りを免れて生き残った者たちを、あなたの帯とされる」だと言います。もしそうだとすれば、神は怒りの名残を帯に締めていつまでも怒られるというイメージは間違いです。

  神が帯として身に帯びられるのは、「怒りを免れて生き残った者たち」です。本当は神の裁きにあうべき者、その怒りに触れて殺されるべき罪人ですが、神の裁きを免れたのです。どう免れたか。ただ、旧約時代のこの信仰者はそういう意味のことを表現しようとしたのですが曖昧(あいまい)になってしまったのです。

  キリストが来られて初めてその具体的な意味が明らかになります。キリストの光で照らされる時、不鮮明だった意味が鮮やかになります。私たちが神の裁きを免れて生き残り、代わってキリストが裁かれたのです。そして火中の栗を拾うかのように裁きの中から拾い出された私たちを、神は帯として身に帯びてくださるのです。

  人間は互いに裁き合いながら悲惨の中で苦しんでいます。人の罪は決して赦さず、自分の罪については大目に見る。そして決して謝ろうとはしません。人がそうだと言うより、自分自身がそうです。

  キリストが身代わりになって、神の怒りから私たちを救い出して下さらなかったら、とうてい救いに与れるような者ではありません。そうだけれども、私たちは愛されて神の怒りから免れた者、怒りを免れて生き残った者です。このような者を帯とされるのです。

  エレミヤ書に、「乙女がその身を飾るものを、花嫁が晴れ着の帯を忘れることがあろうか」とあります。丁度今日は、Aさんが私の話を応援するかのように帯を締めて着物姿で来られました。昔は、帯は女性たちにとって命のように大切なもの、帯は誇りでした。その様に、神はキリストを信じる者たちを誇りとして身に帯びてくださるのです。全く驚くべきこと、恐るべきことです。

  私たちが神の帯とされている。そこに私たちの平和、シャロームがあります。神の帯とされて私たちに平和が宿り、安らぎが生まれ、穏やかさも、和らぎも授けられます。心配の内に生きることは信仰を生きることではありません。神が私たちを帯とされるのですから、私たちも神にあることを心の帯としましょう。腰に帯を締めると体がシャンとし、気持も引き締まります。神への信頼を帯とする時、生きることの喜びが生まれ気が引き締められて、生きることに優しさと和らぎが生じます。

  パウロは、「立って真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音の備えを足に履き…」とエフェソ書で語りました。神のシャロームが授けられる時、私たちの内面に平和が訪れ、平和の人になり、次に安らぎを与える人また人々の中に和解を造り出す人になって行くでしょう。
           (完)
  
        2008年7月20日
  
                                           板橋大山教会   上垣 勝
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  (今日の写真は、ボーヌ市街に入る古い城門。)