あなたにシャロームを (上)


       
                                          詩編76篇1-13節

                                 (1)
  今日の3節に、「神の幕屋はサレムにあり、神の宮はシオンにある」とあります。サレムはエルサレムのことです。この町はシャロームを意味します。日本語に直すと、平和、安全、安心です。また、安らぎ、穏やかさ、和らぎを意味します。ですから「神の幕屋はサレムにあり」とは、神はサレムに平和の幕屋を置き、平和を打ち立て、平和をもって支配される方だということです。神は平和、和らぎの中におられるということでもあります。

  エルサレムは紀元前1800年頃のアブラハムまで遡(さかのぼ)れる町です。神がこの町に平和の幕屋を置くことによって、古くから全人類に平和と安らぎを企てられたということも意味するでしょう。

  4節に、「そこ-エルサレム-において、神は火の矢を砕き、盾と剣を、そして戦いを砕かれる」とありました。この町から平和を始められたということです。また1節には、神はこの町において「御自らを示され」、「御名の大いなることを示される」とあるのも、平和を打つ立てることによって神の名の偉大さを示されるということです。

  現代のエルサレムは、ユダヤ人とパレスチナ人との緊張が支配する町ですが、元々神はこの町を通して平和を打ち立て、ご自身の大いなることを示そうとされたのです。今日はルカ19章も読んでいただきましたが、イエスエルサレムに入場された時、この町は既に「平和への道をわきまえ」なくなっていたと、イエスによって語られています。

  1670年、今から390年ほど前、日本で言えば徳川時代の初めに当たりますが、北アメリカのコッド岬にピルグリム・ファーザーズと呼ばれる102名の人たちが着きました。彼らは最初の開拓地を「サレム」と名づけ、この76篇を歌ったそうです。神は平和の神です。で、平和の町を新大陸に建設しようとしたのです。それがイギリスから脱出したプロテスタントの切なる願いであり、目指す信仰でした。

  それから約390年、今アメリカに信仰の寛容をもつ高邁な理想社会建設の夢はあるのでしょうか。だが翻って、私たちはこの8月に戦後63年の夏を迎えますが、私たちが敗戦と共に「もう2度と戦争はいやだ」と深く肝に銘じたこと。実際この教会には、「もう2度と戦争はいやだ」と語る年配の方が何人もおられます。そして戦後、国際間の紛争は武力によって解決しないと日本国最高の法である憲法でうたったものの、実際的に平和を作り出す外交がどう進められてきたでしょうか。急に竹島問題が浮上しました。これは紛争の火種を日本政府が先に作ったわけで非常に残念です。1910年の日韓併合の5年前に竹島を日本の領土だと宣言し、それから朝鮮半島の侵略、また、ここには旧満州出身の中国人の若い方もおられますが、満州への侵略を行ないます。その歴史を韓国の方は覚えている分けで、日本政府を警戒するのは当然でしょう。

                                 (2)
  次の5節以下は、紀元前701年頃、エルサレムを攻撃したアッシリア帝国センナケリブ軍をイスラエルの人たちが破った時のことが反映されていると言われます。神が「光を放って、力強く立たれる時、勇敢な者も狂気のうちに眠り、戦士も手の力を振るい得なくなる。…あなたが叱咤されると、戦車も馬も深い眠りに陥る。」

  この時の戦いの様子は列王記下8章以下やイザヤ書に出てきます。獰猛なアッシリア軍の勇士たちは「狂気のうちに眠り」、「戦車も馬も」昏睡状態に陥ったと不思議なことが書かれている訳です。これは、一説ではアッシリア軍の大多数がマラリヤにかかったと言われます。イスラエルの北部は沼地が多く、マラリヤが大発生することがあるそうです。それにしても馬もマラリヤに罹るのでしょうか。高熱を出したり、目が見えなくなったり。

  いずれにせよ、これはイスラエルの人たちにとっては、神が御名の大いなることを示して撃退して下さったことでした。そして平和の町に、敵の力をも用いて平和を確立してくださったことでした。ですから、8節で改めて神の偉大さを誉めて、「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方」と語るのです。「あなたこそ」が2回繰り返されるのは、神の恐るべき偉大さを強調するためです。また9節で、神は天から裁きを告知すれば、地は沈黙の内に静まると語ります。

                                 (3)
  しかし、神のご支配は単に力の支配ではありません。神の主権は一見そう見えることがありますが、神の主権の内側、その本質は異なります。それは愛によるご支配、憐れみによるご支配です。ですから10節は、「神は裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる」というのです。

前の口語訳では、「地の全てのしいたげられた人は救われる」となっていました。神の愛はしいたげられ、小さくされ、苦労する人たち、重荷を負う人たちに示されるのです。

獄中の洗礼者ヨハネは、弟子たちをイエスの元に遣わして、あなたはどなたですかと尋ねました。するとイエスは、「盲人は見え、足萎えは歩き、らい病人は清まり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は甦り、貧しい人たちは福音を聞かされている」と答えられました。イエスを通して、神は弱い人やしいたげられている人、周辺に追いやられてしまった人たちを力づけ、その人たちを生かす力であることを現わされました。神は決して苦労する者や、低くされたり、小さくされたりしている人を捨てて置かれないのです。

エスは、「私を信じるこれらの小さい者の一人を躓(つまず)かせる者は、大きな石臼を首に掛けられて、深い海に沈められる方がましだ」と言われ、「これらの小さい者のひとりでも滅びることは、天の父のみ心ではない」とおっしゃっています。

     (つづく)

   2008年7月20日
  
                                           板橋大山教会   上垣 勝
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  (今日の写真は、ブルゴーニュのうまい酒どころバクシーの町。)