通りすがりの出会いから


    
                                            マルコ2章13-17節

                                 (序)
  イエスは、ガリラヤの漁師たちを弟子にされました。彼らは招きに応じてたちどころに従いました。舟も父も残して従いました。一家の長男、次男を引っこ抜かれたこと、その意味について以前にお話いたしました。

  その後、イエスガリラヤ中の諸会堂を行き巡り、汚れた霊に憑かれた男や、重い皮膚病や中風の人ら多くの病人を癒されて、「再び湖の畔に出て行かれた」と今日の聖書は語ります。すると多くの群衆が集まったので教えられ、「通りがかりに」、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「私に従いなさい」と言って招かれると、彼は立ち上がって従ったとありました。レビはその時、同業者や親しい人を大勢集めて、イエス様にも来て頂いて盛大な別れの会を催したというのです。

                                 (1)
  今日は時間がないので、すぐ主題に入りますが、マタイによる福音書でもこの福音書でも、イエスは「通りがかりに」レビをお招きになったと書いています。恐らくそれが事実だったのでしょう。

  この「通りがかりに」という表現に、どこかそこはかとなく自由の空気が漂っているのをお気づきになる方もいらっしゃるでしょう。蛇が蛙を狙うように、この人間をぜひとも「漁(すなど)ってやろう」と狙(ねら)っていたとなると、狙う側も狙われる側も余裕がなくなります。だが「通りがかり」だと言うのですから、ほとんど思い付きです。思いつきでヒョイヒョイ行なうのが得意な方もいらっしゃるようですが、イエス様は、「風は思いのままに吹く。どこから来てどこへ行くのか知らない。霊から生まれた者もその通りだ」とおっしゃいました。そういう自由の空気がこの招きの言葉に感じます。

  イエス様は、予め画策したり戦略を立てたりされず、未来の弟子としてふさわしいと一目ご覧になるや直ちに招かれました。

  大分の校長らが、わが子の教員採用に金を渡して頼んだとか、頼まれた方も百万円とかを受け取ってその子女を合格させる。他の受験者の点数を下げてまでしてその子女を合格させる。これは大分県だけでしょうか。噂はかなりの県でもあります。君が代の強制を都道府県教育委員会が進めていますが、教育委員会というものの実態はこんなものかと思うと、日本の将来を考えて本当に悲しくなります。

  イエスは一目見て招かれました。招きの時点では、その人が優れた所があるかどうか、まだ人の目には分かりません。本人にも分かっていない。でも、失敗や挫折を重ね、一皮むけ、二皮むけるうちに成長することを見抜いておられたのでしょうか。若い方は自分の失敗や挫折で、早々と自分に失望してはなりません。獏(ばく)は夢を食うと言いますが、人間は失敗や挫折を食って人としても職業人としても成長するのです。自分はなんてヘマばかりするんだろうということすら、その人に成長させるきっかけを与えます。悩まぬ人に成長なし。心配は無用です。

  イエスは、君はここが良い所だとか、君にはこれが期待できるとか語られません。しかし、弟子たちはイエスの招きに留まった。その愛の中で生きたのです。すると徐々に何ものかを発見して行きました。イエスはご自分と同様に、彼らもできるだけ自由であるように望まれた。そういう自由の空気が、もうこの弟子の招きにおいて漂っています。

  イエスの所には目標は何人。ノルマはどれだけ。それ以下は罰金だというようなノルマ社会はありません。東大医科学研究所の教授が「倫理委員会承認」だと偽って論文を出していたと言います。社会評価というノルマがその人の上に重くのしかかり、縛り付けていたのでしょう。

  インターネットでホームページを見るのは「通りすがり」のようなものです。通りすがりに大山教会のホームページを開いて礼拝や集会の様子をちょっと覗く。実際の教会に入るにはちょっと遠慮がありますが、これだと遠慮は要りません。しかも、ホームページでは特徴を書いていますからチラッと見ればいいわけです。

  イエス様が通りすがるのと、パソコンをしている人がホームページを通りすがるのとでは違いますが、どちらにも自由の空気があります。そして通りすがりに教会のホームページに立ち寄って大山教会に行って見ようと思って、やがてボーイフレンドを連れて来る人たちがいるのです。聖書の中で、アンデレがペトロを誘ったり、フィリポがナタナエルを誘ったりしています。ナタナエルは拒みます。「ナザレ村出身者なんて、ろくな人間はいない」なんて言っています。でもフィリポはくじけない。また誘うわけです。それでナタナエルはしぶしぶイエスの所にやって来る。そして出会いが起る。それでもいいのです。

  今、こんなちっちゃな教会に若い人たちが来始めている。何か不思議なことが起っているわけです。その一つは私たちの教会には自由の空気が漂っているからだと思います。自由でありつつ、誰しもただ神の主権の下に置かれていることを最も重要なことだと感謝している。ただ神のみを畏れることによってことによって本質的なところでみな和解し、自由にされている。和解の喜びが起っているわけです。名誉心も、競争心も捨てている。ねばならないが、ない。昨夜は、あるグループでは「牧師も早々捨てられて」いました。(注;これは土曜日からの夏期集会の第一夜、一番湧いたゲームの中で起ったこと)。ゲームの中の話ですが…。教会にさわやかな風が流れ、信仰の明るい空気が漂っているからでしょうか。

         (つづく) 
 
      2008年7月13日

                                           板橋大山教会   上垣 勝
  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  (今日の写真は、ボーヌの郊外の秋。ブルゴーニュのこの辺りはブドウ畑が延々と広がり、田舎を走る乗り合いバスにぶどう酒を買って乗り込んでくる人たちがいる。)