安らかな信頼 (下)


                                               
                                             詩編23編1-6節

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  さて、5節には第2の危険が出てきます。「私を苦しめるものを前にしても」とあります。これは死の陰の谷のような環境的なものや野獣でなく、自分の目の前にいる人間です。敵です。以前は友であったかも知れないが、今は苦難を与える者たちのことです。

  だがこの信仰者は、「私を苦しめる敵の前に座っていても、神は私に食卓を備えて下さる」と言うのです。前の訳では、この「食卓」は「宴(えん)」となっていて、うたげや祝宴を意味していました。文語訳では雅(みやび)やかな言葉ですが、敷物を敷いて催される「筵(えん)」という言葉が使われていました。雅なうたげです。

  いずれにせよ、敵が目の前にいます。意見の衝突する者もいます。苦しめる者も同席しています。食って掛かる者もあるかもしれません。しかし、神がそうした者らがいる只中で、私に祝宴を設けて下さるのです。

  神が祝宴の主(あるじ)です。私たちを苦しめる者に目を向けるのでなく、祝宴を取り仕切る主人にのみ目を注げばいいのです。他の者たちの立ち居振る舞いも目に入りますが、心はこのお方にのみ向い、まるでこのお方と一対一で対面しているかのように、神とひたすら向き合うように差し向かいで生きるのです。信仰生活は詰る所は、神との差し向かいです。愚かな私、小さい、罪深い私にさえ天地万物を造られた神が差し向かいで対して下さっているということを知る喜びが、信仰の喜びです。

  少し先の詩編25篇3節をご覧下さい。「あなたに(神に)望みを置くものは、誰も決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです」とあります。本当にそうだと思います。

  他の人でなく、先ず自分を救っていただこうとして一心になる必要があります。自分が真理に向かうと、他の人も真理に向かう可能性があります。しかし人を救ってやろうとか、ましてや欺く者を救ってやろうとしても無理です。神に委ねなければなりません。

  キリスト教ではありませんが、禅宗道元は「只管打坐(しかんたざ)」ということを言いました。私は福井に長くいました。永平寺を開いた道元は、只管打坐、ただひたすら座禅することを説きました。ただ、禅は無の境地を悟ろうと、無に向かって座禅しますが、キリスト者は神にひたすら向かうのです。余念を交えず、もっぱら神に対するのです。苦しめる者があっても、私たちの主である方、教会の主であり世界の主である方、そして全歴史の主である方にもっぱら目を向けるのです。

  すると5節が書くように、私の頭に香油が注がれ、私の杯になみなみとぶどう酒が注がれる。祝福の極みとして、神が私たちの人生、存在自体を祝福してくださるのです。キリストの祝福は、私たちの信仰の祝福や魂の祝福、思想の祝福に留まりません。私の存在自体を祝福し、存在を受け入れ、赦し、義としてくださるのです。ローマ書5章1節はそのことを語っています。貧しく、愚かで、この罪深い存在が神によって義とされること、そこに祝福の極みがあります。

  繰り返しますが、敵もいます、困らせる人もいます。だが私たちが義とされ平和を得て、私たちの生きる人生の筵(むしろ)が、対決、対立、抗争、口論、争いの人生でなく、宴の人生になります。祝宴としての人生です。神にもっぱら向かう時、安らかな信頼、安らかな人生が授けられるのです。

  先週、ロンドンから1年間ほど一緒だった24、5歳の若いイギリス人女性とボーイフレンドが来て、池袋駅の「みどりの窓口」で会うことにしました。駅の構内地図に説明を書き入れて、インターネットで送っておいたんですがそれを印刷して来なかったらしく、ラッシュ時のあの雑踏の中で2時間探しました。いったん諦めて電車に乗って帰ろうとしたんですが、家内から電話があって、彼らも駅で探しているらしいと言うので、引き返して待ちました。でも2時間たっても会えなくて、今度こそ帰ろうと改札に入ろうとしたら、こちらの方向から彼らが現われたんです。電撃の出会いです。思わず近づいて彼女と抱き合いました。沢山の人が見ている前で、美女と野獣が抱きあったんです。

  彼らは若いのに、よく2時間以上も忍耐強く探したと思います。日本の若者は2時間も探し続けますか。若者でなくても1時間もすれば諦めて帰るのでないでしょうか。彼女は会えるようにと切に祈ったそうです。彼女の祈りがあったから会えたんです。私は、…祈らなかったんですが。

  それはともかく、もっぱら神に向かい、祈って、安らかに信頼して待つ、粘り強く待つということ。それを若い人から教えられました。

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  そのような中で6節は語ります。「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。」これまでは、羊飼いが先頭に立って導いてくれる様子が書かれていました。ここでは背後から、恵みと慈しみが押しかけて来て支えてくれると言うのです。人生の終りに至るまで、恵みと慈しみが追って来るのです。

  それで、この信仰者は語ります。これは一つの決意です。神への応答です。「主の家に私は帰り、生涯、そこに留まるであろう。」彼は、主との交わりの中で「安らかな信頼」をもって、生涯住み続けるだろうと語ります。それは、喜びにあふれた決意です。この決意は揺らぐことがありません。数々の試練を乗り越えて来て、ここに至ってただひたすら神を仰ぎ見る信仰、安らかな信頼の生活を見出したからです。
         (完)

       2008年7月6日

                                           板橋大山教会   上垣 勝
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  (今日の写真は、ハチ公前のジェブラ・クロッシングで。)