安らかな信頼 (上)


    
                                             詩編23編1-6節

                                 (序)
  詩編23篇は2千年にわたり、信仰者にとって特別な位置を占めてきました。青草の原、水のほとり、谷、食卓。これらの誰もがすぐにイメージできる単純な言葉を用いて、神はどんな困難な現実においても私たちと共におられると語っていて、人生の様々な局面に出くわすたびに繰り返し読まれて来ました。

  この詩編のように長年にわたって親しまれてきた詩編はそうざらにありません。で、この詩編はよく大きな木の板に達筆な墨で書かれて壁に掛けられたり、字の部分を彫刻刀で彫られて掛けられたりしています。前の教会でも新築した時に教会の広い和室に掛けました。現在も恐らく掛けられているはずです。

                                 (1)
  「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。」この1節の言葉は、この詩が指し示そうとしている方向を正しく示しています。前の訳では、「主は私の羊飼いであって、私には乏しいことがない」となっていました。文語訳聖書では、「主は私の牧者なり、われ乏しきことあらじ」でした。

  「私には乏しいことがない。」「私には何も欠けることがない。」何と力強い言葉であり宣言でしょうか。

  しかしこの言葉の前で、「どうすればそんな言葉を吐けるのか」、何も欠けることがない幸福な人ならいいが、そうでない者はとうていそんなことは言えないと思う方もあろうかと思います。自分の身辺に目を向けると、不安なことや思い煩うことが一杯にあって、時としてそれらが一度に津波のように押し寄せることがあるでしょう。水は浅い時には別に怖くも恐ろしくもありません。浅瀬の水遊びは子ども達も楽しいものです。しかし、水が増えて体が浮くほどになりますと、自由は利きません。押し寄せる津波によって流されてしまいます。不安も思い煩いも一度に束になって打ち寄せますと、足がかりがなくなってしまいます。

  「主は羊飼い。私には何も欠けることがない。」私がこの言葉の真の力強さに触れたのは今から10年ほど前のこと、レーナ・マリア・ヨハンセンさんというスエーデンの女性歌手が来日した時です。彼女は生まれた時から、こんなふうに両手がない。ブラウスの半袖は、両肩から手がないのでブラッと垂れ下がっていました。また片足が半分の長さしかない。それで義足の上に短い足を乗せて、ゆっくり歩かれました。スエーデンでは音楽学校に通い、家から離れて自炊生活をして、自炊ですから自分で買い物に行ったり料理をしたり、足でお料理をされる。その上自動車の運転もするし、教会で奉仕し、音楽活動をしておられました。

  両腕がないレーナ・マリアさんがステージに現われて、最初に、「私には何も乏しいことがない」と大変美しい奥行きのある声でこの詩編23篇を歌われました。その時、私の目から涙があふれて止まりませんでした。それから彼女は、とても愛情豊かなクリスチャン・ホームで育てられ、お母さんは、両手がなく足も半分で生まれて来たレーナ・マリアさんを、神様から送られてきた素晴らしいプレゼントとして、宝物として、悲しみでなく喜びをもって心から愛して育ててくれたことを証しされました。そして「神様は私を良い作品として作って下さった」と証しされたのです。その言葉にも拭いても拭いても涙がこぼれてきて止まりませんでした。

  それ以来、「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」とは、どういうことなのかを教えられました。この言葉を、最大の逆境の中においても語る人がいることに驚きました。この詩編はそういう内容の詩編だと知りました。

                                 (2)
  さて、23篇の信仰者自身は、なぜ何も欠けることがないのかを2、3節で語ります。「主は、私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」

  羊飼いは、羊の群れを養うために青草の原に、どこからどこへ、どのように導くことができるかを知っています。羊は大きな世界、大情況を知りません。しかし羊飼いは、今どこの青草がいいのか、次にどこの青草がよくなるか、水辺はどこにあるのかもちゃんと知りわきまえています。だから羊たちを正しい道に導きますし、魂を生き返らせることができます。神は、確かに羊飼いのような方です。私のほぼ45年のキリスト者の生活からも、そのことを実感しまた痛感します。

  先週は、「思い切って信頼する」という題でしたが、今週は「安らかに信頼する」です。信頼するには、思い切って一見リスクを起こすという面があります。しかし、イエスへの信頼がなされると、やがて「安らかな信頼」へと必ず導かれます。

  羊飼いは羊の知らない所、見えない所も知っているだけでなく、個々の羊たちの様子も状態もわかっていて、先頭に立って導いてくれるのです。それで、羊の群れは次から次へと絶えず新しい青草の原へと導かれて行きます。あり余るほどの青草がなくてもいいのです。十分に生き、人生の使命を果たすだけの青草があればいいのです。神はそこへと導いてくださるのです。

                                 (3)
  4節以下に2つの危険が上げられています。羊飼いは、羊たちから危険を取り去ってくれるのではありません。危険がない場所は動物園でしょう。だがそこは危険はないかも知れないが、羊の最も喜ぶ自然な生活はありません。囲われてしまって本当の自由がありません。羊飼いは自然の中にある危険を取り去るのでなく、たとえ危険があってもその危険を乗り越えて行くようにさせるのです。

  人間社会でも、危険のない全く安全な生活なんて嘘です。知恵を働かせれば全く安全、安心な生活ができるように思っていますが、それは幻想です。生命保険をかけて安全な生活をと思っていたら、それを貰えない人たちが多くいるというのですから、「万一生命保険会社に騙されたときの保険」が次に必要になります。それに、危険のない安全で安定した生活を望む時に、自覚しないで他の人たちに危険を押し付けている場合や、危険を押し付けられている人たちに無関心になっている場合があります。これは社会全体としては大変危険な兆候です。生きている限り必ず危険が伴います。危険があってもそれをどう乗り越えるかが大事になります。

  さて、この信仰者が直面している危険の一つは、これは比喩ですが「死の陰の谷」です。谷は深く、昼なお暗く、谷の崖の道は細くて崩れ易く、危険です。死とすぐ隣り合わせている。そんな所を通らなければならないことがあるわけです。私たちもそういうことに遭遇することがあります。しかし、神はそこにおられるとこの信仰者は主張します。だが、神はそこに共におられるのですが、谷は暗く危険であることは変わりありません。

  羊の聴力は良いようです。耳はいいが、暗い所では余りよく見えないようです。鳥目ではないようですが、暗い所は苦手なのです。それで、死の陰に覆われた谷では、どこへ行けばいいのか分からないのです。その上、羊は大の怖がりです。チョッとのことでびくっとしてパニックになるのです。最近パニック症候群の人が多いそうです。人間が羊に似て来たのでしょうか。

  ところが、「死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭(むち)、あなたの杖が私を力づける」と言います。パニック症候群であっても、あなたが共にいてくださるので私は災いを恐れないと言うことでもあるでしょうか。

  鞭と杖。これらは羊が危険な場所に行かないように使います。だが、これらの一番の目的は狼などと戦うためです。狼は集団で襲って来ますから、羊飼いたちは鞭や杖をもって命がけで果敢に戦うのです。

  それだけでなく、羊飼いたちは杖で地面をトントンと叩くのだそうです。すると羊たちはその音を蹄(ひづめ)で感じるのだそうです。そして、羊飼いは近くにいる、私たちと共にいてくていると、蹄で感じる。それで彼らは落ち着くのだそうです。

  私も老人になって来まして、町を歩いていると妻がよく私の手を握るのです。愛しているからっていうんじゃなくて、落ち着くかららしい。精神安定剤のようなものです。医者から、妻もパニック症候群とか何とか言われているらしいです。私の手で落ち着くんだったら、次の誕生日に手を模(かたど)ったぬいぐるみをプレゼントしようかと思っているんですが…。羊はトントンと地面を叩くだけで落ち着くんですから、羊の方が精神性は高いかも知れませんね。

  冗談はともかく、私たちには羊飼いイエスを蹄で感じるそんな蹄はありませんが、イエスの存在を感じるのはどんな時でしょうか。聖書を読んでいて、心に何かが響いて来るのを感じるのはイエスが近くにおられるからでしょう。キリスト教の本を読んでいて、あるいはもっと別の本を読んでいてもイエスの存在を感じることがあるでしょうか。今日は聖餐式がありますが、キリストの体と血を表わすパンとぶどう酒を味わう時に、羊たちが蹄で感じるように、いわく言いがたいキリストの実在を感じる人があっていいでしょう。杖は、そういう羊飼いの実在を示す大切な働きをするのです。

        (つづく)

       2008年7月6日

                                           板橋大山教会   上垣 勝
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  (今日の写真は、イギリスの俳優のJと教育主事のS。)