思い切って信頼する (下)


                                              
                                           マタイ4章18-22節    
                                 (4)
  ただ、イエスは弟子たちの人格の深い所からの応答を引き出す感化を与えられましたが、いわゆるカルト宗教(統一原理やものみの塔オウム真理教や摂理など)のように良心的感覚を麻痺させ、マインド・コントロールを行なって反社会的活動をさせるものではありません。

  むしろ「世の光」「地の塩」であることを喜びとする応答を引き出されます。イエスは自由の道へと彼らを解放して行かれました。

  そして、彼らがイエスに従う道を一歩踏み出した時、一人ひとりはユニークな、掛け替えのない者となって行きました。キリストの香りを放ったからです。一人ひとりが生きた石としてキリストに用いられたからです。

  イエスの自由さ、大胆さ、その愛が弟子たちに精一杯自由をもって生きようという願いを起こさせましたし、危険をも冒して主に従おうという思いさえ起こさせました。

  イエスの魅力の一つは、弟子たちを押さえつけたり拘束せず、人として自由にした所です。イエスはご自分を押し付けることなく、しかも信頼をもって絶えず繰り返して招かれました。その典型的な言葉は、既にイエスについて来ている弟子たちに、「私について来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従いなさい」と語って、一人ひとりを尊重し、自発性と自由な応答を求められたことです。この自由さが弟子たちを自由にし、大胆にさせたのです。

  イエスにおいて、従うことの喜びというようなものが起ったのです。私たちはイエスと出会うと、喜びをもって呼吸し始めます。自由の空気を吸って喜びに満たされます。私の喜びや自由でなく、キリストが私を招いて下さった、私の主である神が私と関わって下さっているという喜びです。この喜びと自由が冒険を可能にしていきます。

  この前、近くのコーヒー豆を売る自家焙煎のお店に入りました。中南米やアフリカ、東南アジアなどの20種類ほどのコーヒー豆が籠に入れて並べられ、コーヒーの原産地はエチオピアですがエチオピアのもありました。お店の雰囲気は若者向きで、ヤング・ママなどが好きそうなお店です。一寸したコーナーがあって格安でコーヒーが飲めます。飲んでいるとコーヒーの香りとまろやかなうまさでいい気持になり、お店の人とおしゃべりをしたくなりました。それでレジで話しかけたのですが、ご主人はむっつり。話に乗って来ません。つっけんどんで、怒られているのかと思いました。ひとつも笑顔がなかったのです。インテリアは洒落ているのですが笑顔がない。それで解りました、この店に人が入っているのをあまり見たことがなかったのです。

  弟子たちがイエスに出会って招かれた時、「従いたい」という思いが起った。従うことの喜びがあった。キリストの体である教会から喜びが消え、笑顔がなくなったらどうでしょう。母なる教会の母性的な愛が失せ、規則と戒めの肩苦しい所になったら、聖霊のさわやかな風が吹き来たらない陰気な場所になったら、たとえパイプオルガンが喜びの旋律を奏でても教会に喜びが消えたら、誰も魅力を感じないでしょうね。

                                 (5)
  イエスの招きに応じることは、弟子たちがそうであったように、一歩新しい世界に踏み出すことです。それは一見不安定になることを意味します。アブラハムがそうであったように定住生活から、主に導かれて旅する人になることです。

  だが人はみな旅人です。そういう人生の真理に目覚めた人生の旅人になり、この世では宿り人、神の国に国籍を持つ、国籍を天に持つ喜ばしい人になるからです。

  しかし単に旅人の仮住まいに終始するのではありません。イスラエルの人々がやがてカナンに入って定住したように、社会の中で愛に生き、家族や隣人に愛をもって生きる、単に一緒に生きているだけでなく自覚して愛に生きるのです。

  天に国籍をもっていますから、日毎に喜びをもってイエスに心を開き、祈りの中で神に対して心を開くこと、聖なる方との交わりを喜び守るのです。

  そしてまた、イエスがそうであられたように聖なる方との交わりをもって、虐げられた人たちや孤独な人たち、苦労する人、自分より悲しみを多くもっている人の中に入って行ったり、その人たちのことを思いやりながら生きるのです。

  教会の中に未来があるとすれば、どういう形であれ貧しいものと共にある未来だと、H.ナウエンが言っていますが、全く同感です。

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  イエスは、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。これは、「そのことを信じますか」という問いでもあります。からし種一粒ほどの信仰があれば、山に向かって海に入れと言えばその通りになるとイエスは言われました。何よりも先ず「信頼しますか」と問われるのです。

  信仰とは信頼を意味するとは、K.バルトの言葉です。彼は、信仰とは信頼を意味する、認識を意味する、告白を意味すると言っています。キリストに信頼するとは、もはや自分に信頼する必要がないということです。身軽でいいのです。自分自身を守ることもいらない。弁護することもいらない。自分を救う必要もない。意地を通す必要もない。神が全てを知って下さっており、必ず良き道に変えて下さるからです。

  イエスは、「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなた方を自由にする」と言われました。これは自分からも人からも自由で、囚われず、かつ真理の大道を行くイエスの約束です。

  「人間をとる漁師にしよう」とイエスは言われました。キリストは、私たちに家族や職場の人など、社会の色々な隣人を委ねられます。魚は取ったら死にますが、人間は生かすために委ねられるのです。その隣人との出会いの中で、私たちの命や人生が十分発揮され、その人たちと人格的な愛をもって出会い、人としての信頼を築き上げるために委ねられます。

  イエスから身を引き、距離を取っていると何も実現しません。しかし、イエスの招きをまことをもって真面目に受け止め、委ねられた人たちを小さい器ながら愛と信頼と信仰をもって、キリストのゆえに喜びを抱いて引き受けていこうとするなら、そこから新しい変化が起ってきます。

  今週は、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」とのイエスの言葉を思い巡らして進みましょう。
 
     (完)
          2008年6月29日

                                         板橋大山教会   上垣 勝
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  (今日の写真は、大山教会を訪ねたイギリスの青年たち。)