思い切って信頼する (上)


   
                                            マタイ4章18-22節
                                 (1)
  イエスが伝道を始められたのは、バプテスマのヨハネヘロデ王に逮捕されて間もなくです。故郷ナザレから湖畔の町カファルナウムに来て伝道を始められました。すると、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」ということが起ったのです。喜びと希望がこの人たちに訪れました。

  この日イエスガリラヤ湖の畔を散策して、漁師たちが網を打ったり漁を終えて舟で網を繕ったりしている様子を、暫くたたずんで見ておられました。カファルナウムに移ってどれ程日が経っていたか分かりませんが、これまでも朝早く畔を歩いては、漁師たちの働く姿を、彼らの心と魂その人生を思い巡らしつつご覧になっていたのでしょう。

  そしてこの日は、これまでと違って一歩彼らに近づき、先ずペトロとアンデレに、続いてヤコブヨハネに「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言って招かれました。

  むろん彼らは、最近カファルナウムに来たこのよそ者の招きを無視することもできました。しかし、もし彼らも他の人たちもイエスの招きに少しも応じなければ、世界は現在のようになっていなかったでしょう。

  人々は、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」、「あなたの敵を愛せよ。あなたを迫害する者のために祈れ。」こういうことに少しも心を向ける人はいないばかりか、利己主義がもっと跋扈(ばっこ)していたでしょう。ギブ・アンド・テイクだけで、無償で与えることや損になっても愛することは弱い人のすることだと、蔑(さげす)む人さえいたでしょう。「御心が天になるごとく、地にもならせ給え」などと、切に祈る人は皆無だったでしょう。むろん平等とか人権とか多様な価値観を認めるとか、人の意見や思想や信条を認めることもなく、江戸時代あるいは秀吉時代のような自由のない社会のままだったかも知れません。

  そしてガリラヤの漁師たちも、もしイエスの招きに少しも注意を払わなかったら、彼らは魚をより多くとること、より高く売りつけること、わが生活を安定させることのみに心を向けて一生を過し、ガリラヤの地で朽ちて行っただけでしょう。

                                 (2)
  ところが、ペトロとアンデレは「すぐに網を捨てて従った」のです。ヤコブヨハネも「すぐに舟と父親とを残してイエスに従った」のです。なぜ従ったか、理由は少しも書かれていません。牧師たちは色んな理由を並べますが、それらは想像に過ぎません。ただ、直ちに網を捨て、舟と父をそこに残して従うほどの強烈な出会いがここで起ったことは確かです。そして何年か後には、紆余曲折はありましたが、使徒言行録にあるように全く変えられて行きました。

  彼らの存在の深い所からこの招きに応答したからですし、その様な人格の根本の所からの応答を引き起こす出会いがイエスとの間でありました。親も止めることのできぬ深いところからの出会いです。

  イエスの招きの言葉には、イエスというお方がどんなお方であるか、神の主権、その力、その本質が現われていました。ヨハネ福音書が記しているように、「それは父の独り子としての栄光であって、恵みとまこととに満ちていた」のでしょう。こわい、高圧的で威圧的な権威主義者の力でなく、恵みとまこと、愛と平和、真理に溢れていたでしょう。

  ですから、キリスト教の信仰生活も表面的なものでなく、人格の深い所からの真実とまことをもった応答です。カール・バルトという人が、信仰とは「決定的に、ひたすら、徹底的に」神の約束とそのみ言葉に固着することであると述べています。力を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛そうとすること、「まこと」をもって愛そうとすることです。

  こうして彼らは変えられて行きました。「まこと」をもって招きに応じた時、救いは自分の力で達することはできないことを知らされました。彼らの言葉ではありませんが福音書に出てくる人の言葉で言えば、「信なき我を助けたまえ」というまことの信仰に導かれ、十字架の愛と復活の希望の中に汲み尽せない命の泉が湧いているのを知って行ったのです。

                                 (3)
  「私について来なさい。あなた方を人間をとる漁師にしよう。」イエスは弟子の招きにおいて、どう育つか分からない者を招くことにおいて、冒険をリスクを冒されました。神への信頼に賭けられました。

  考えても見てください。ペトロもヤコブも、家を背負って立つ後継ぎです。それを引っこ抜くのです。一家の大黒柱になる男を引っこ抜くのですから大変な責任です。しかも彼らの弟のアンデレとヨハネも連れてですから、まかり間違えば一家を破滅に陥れるかも知れません。だが、イエスは神の終末的な救いを信じておられたから、自信をもって確信をもって招くことができたのです。

  神への信頼はイエスの存在全体を貫くものです。彼はその使命を果たすために分かち合う人を冒険をもって招かれたのです。

  聖書は信仰の書ですが、同時に冒険の書と言えます。至るところ冒険的なことで満ちています。アブラハムの旅立ち、75歳の旅立ちは信仰の冒険でした。彼が一人息子イサクを献げる事件、あれは彼にとっても神にとっても一大冒険でした。出エジプトの出来事は言うに及びません。マリアの「お言葉どおりこの身になりますように」という、神の子を宿すことへの応答も、貧しい一少女の冒険でありつつ人類から起こった神への最大の冒険でした。弟子の招き、十字架、使徒言行録も、聖霊に導かれて伝道した弟子たちの冒険の記録ですし、キリスト教史も人類の中で起こった神の民の冒険の歴史と言ってよいでしょう。
               (つづく)

        2008年6月29日

                                         板橋大山教会   上垣 勝
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  (今日の写真は、クリューニの高専の学生。)