カリスマは君の中にある (下)


                                            
                                           2テモテ1章3-14節  
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  更に4節で、「私は、あなたの涙を忘れることができず」と書いています。テモテには、苦しむ人や孤独な人への稀にみる温かい心があった。涙をもって人と接することのできる賜物があったのでしょう。あるいはこの涙は、テモテが示した自分についての悔い改めの涙を指すかも知れません。彼にはそういう純粋な所があったのです。ですから5節で、「あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています」とパウロは書くのです。しかもそれに続いて、「ぜひあなたに会って喜びで満たされたい」と書きます。これまでテモテはパウロから励まされて来たのですが、いつの間にかテモテはパウロを励ますことのできる人になっていたのでしょう。テモテは、パウロの人柄によって育てられたのです。これは愛です。信頼をおいて育てる温かい愛です。パウロはテモテの良い所をよく見抜いてそれを指摘して育てた。人はこのようなものによって育つのです。

  テモテは少し弱い所のある青年だったようです。善良で優しい、だがやや強さに欠けるわけです。ですから7節で、「神は臆病の霊でなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちに下さったのです」と書いて励ましています。また2章1節でも、「あなた方は、キリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」と勧めています。あるいは別の視点ですが2章24節で、「主の僕たる者は争わず、全ての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反対する者を優しく教え導かねばなりません」と書きました。これは私たち信仰者への、また全ての人間への勧めの言葉でもあるでしょう。

  そしてこれらの根本になる何よりも大事なことは、何事にもまた何人にも恐れないということです。神以外には恐れる必要はないということです。そういうことを分からせようとして2章9節で、「この福音のために、私は苦しみを受け、遂には犯罪人のように鎖につながれています。しかし神の言葉はつながれていない」と書いています。

  パウロは今、獄中にいます。それを恥じる人たちもありました。パウロから去る人たちもありました。それらは3章に出ています。だがたとえ獄中につながれ、あるいは病魔に襲われ、あるいは人に虐(しいた)げられたり、侮辱を受けても、しかもそれを覆すことが今はできなくても、キリストは既に勝利しておられます。神の言葉はつながれたままではありません。神の言葉は誰も縛ることも、つなぐことも出来ません。やがてその言葉が約束したものは勝利します。このような励まし、信頼によってテモテは育てられ、自分の中にある神の賜物を燃え立たせ、発揮して行ったのです。

  今日の題は「カリスマは君の中にある」です。カリスマというと超人間的な非日常的な才能や能力を想像しがちです。それで私は、この30数年間カリスマという言葉をほとんど使ったことがありませんし、説教題にカリスマなんて一度も使っていません。だが聖書はカリスマという言葉を使っています。今日の「あなたに与えられている神の賜物」、この賜物という言葉はギリシャ語でカリスマという言葉です。しかし、元々聖書はカリスマという言葉で異常な能力だけを指すのでなく、カリスマとはカリス、恵みという言葉から来たもので、日常的なところにある神の恵みの賜物のことです。ですから、喜ぶことも、感謝することも、祈ること、親切、寛容、善意、誠実、あるいは誰かさんのように笑顔が素敵なことも、真剣に物事を考えることも、神様から頂いたものはカリスマです。恵みの賜物はあなたの中にあるのです。

  ですからテモテの温かい、人への思いやり、涙、純真な信仰。それらもカリスマとパウロは見ているのです。そして、そのカリスマが君の中にあるというのです。ただ私たちはカリスマを求め過ぎないことが肝要です。身丈に合わぬカリスマも不似合いです。大き過ぎることを求めると人は迷います。

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  ところでパウロは、「私が手を置いたことによって、あなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように」と勧めたのです。

  「私が手を置いた」というのは、前の訳では「按手」となっていました。洗礼の時に牧師が頭に手を置いて洗礼を授けます。あれは按手です。また、牧師になる時に按手礼式と言うのをします。按手というとこういう儀式をイメージします。しかし今の訳は、按手という言葉をやめて「手を置いた」というのです。パウロはここで儀式のことを言っているのでなく、パウロがテモテを全面的に信頼して手を置いたという意味だからです。事実、この手という言葉は原文では複数です。両手を置いて、全面的にテモテを信頼したというのです。

  ですからテモテが人間としても伝道者としても育てられたのは、カリスマは君の中にあるという全面的な信頼によってです。私たちも人の良い所を発見して全面的に信頼していくことがぜひとも必要です。悪い所でなく良い所です。子どもに対しても、家族に対しても、あらゆる人に対してです。そして私たち自身が自分の中にある良いもの、カリスマが神によって置かれていることを見つけて、それを全面的に守り、伸ばしていくことが必要です。14節に、「あなたに委ねられている良いものを、私たちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」とあります。神があなたの中に委ねておられる「良いもの」を、どこまでも守って行く。神のカリスを信じて守って行くのです。

  そうする中で、パウロが語りイエスも語るように、キリストの香りが、その希望の香りが放たれて来るのです。また社会の中で地の塩、世の光として生かされていくのです。

  パウロは8節で、「私たちの主を証しすることも、私が主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ神の力に支えられて、福音のために私と共に苦しみを忍んでください」と言っています。カリスマはあなたの中に与えられているから、キリストを証しすること、福音のためにパウロと苦しみを共にすることも恥じる必要も恐れる必要もない。神の力に支えられて、福音のために苦しみをも雄々しく受けていってほしい。臆病になるのでなく福音のために命を使ってほしい。苦労の中でも神の栄光を現わして行ってほしいと言うのです。カリスマは自己の誇示のためでなく、人のためにそして神のために使うとき最高に生きるのです。

  H.ナウエンの本に、「この世で生きるには、霊的生活を大事にすることが必要だ」とありました。彼は特別に裕福な生活をしている人たちや、極端に貧しい人、また死を間近にして助けを必死で求めている人々と会う中で、神との交わりを生きる生活の大事さを感じたというのです。どんなに贅沢な生活をしている人もそれだけでは何も意味が出てこないのです。霊的な生活がないと、後は色あせてくるともありました。

  人はやはり神に向けて造られているのでしょう。神との出会いがないと、神によって魂を潤されないと、いくらお金だけあってもつまらないものです。礼拝を毎週守り、神の言葉に接し、聖書の言葉に接して行くことによって、人生の意味が深められ、神の愛を探る歩みが一段と一歩進められるのではないでしょうか。

         (完)

         2008年6月22日
                                        板橋大山教会   上垣 勝
  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  (今日の写真は、高専の建築科の学生。各自が自分でデザインしたこんな格好で学校に通っていました。先輩から受け継いだ校風だそうです。)