カリスマは君の中にある (上)


  
                                            2テモテ1章3-14節
                                 (1)
  この手紙は、パウロが同労者として信頼を置き愛した青年テモテに宛てたもので、今日の8節は、「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるようにしなさい」と語っています。

  「あなたに与えられている神の賜物」とありますが、私たち一人ひとりに神様は賜物をお与えになっているのです。それはどの人にも、例外なく与えられているものです。

  若い方はあまりなじみのない言葉かも知れませんが、燠(おき)という言葉をご存知でしょうか。火篇(へん)に奥と書いておき(燠)と読みます。Aさんご存知ですか?ご存知でない?じゃあ、お年を召していない。まだお若いんですね。私は東北地方にいた40代の時に始めて知りました。燠というのは、囲炉裏の灰の下で、灰をのけるとまっ赤に熾(おこ)っている炭火のことです。燠火(おきび)とも言います

  それと同じように、神様が下さった賜物はしばしば隠れたままです。本人には見えなかったり、他人にも分からなかったり、隠されたまま一生終る場合も少なくありません。しかし人間の一人ひとりに魂が授けられているように、一人ひとりの中に燠のように賜物が置かれているのです。

  ですからパウロはまだ若いテモテに、「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせなさい」と語って、あなたは自分にチャレンジして、神様があなたに下さっている賜物を見つけ、それを燃え立たせて用いること、それを生活の中で表わすようにと勧めたのです。

                                 (2)
  私たちは、神が自分に何を授けて下さっているか、その賜物に気づくのはしばしば祈りの中においてですし、それだけでなく聖書を読む中であったり、人と話している時や一緒に働いている時であったりします。しかし、心を静めて神の前に自分を沈黙させる時、神が自分に求めていられるのは、神の賜物を感謝して喜び迎えることだということに気づかされたりします。それで、パウロは青年テモテに繰り返して、あなたの中に授けられている賜物に気づくようにと言って励ましました。

  私たちが自分を見つめる時、ただ自分にないもの、欠けているものに目を向ける傾向があります。良い所があるのに欠点に目を向けて不満を言うわけです。そのために、私たちは失望落胆して自信を失いがちになります。私たちは他の人と比較しちゃあならない。比較は罪であると、キルケゴールは言いました。罪だというのは的外れだという意味です。他人との比較、それは的が外れているのです。私は今の歳になってそれが大変よく分かります。

  秋葉原事件の青年は、残念ながら自分に与えられている賜物にまだ気づいていなかったのでしょう。むしろ自分のアラしか見えなかった。他と比較したりして。

  年齢が進むと忘れがちになりますが、確かに自分を振り返ると、彼と同じ25歳の時に会社を辞めて牧師の道に進もうと神学校に行きました。しかし、その時は洗礼は受けていたもののまだまだ懸命に自分と戦い、もがき、苦しみつつ生きていました。皆さんはどうだったでしょうか。いや、私のこれまでの長い個人史は自分との和解を見つけ出す歴史だった気がします。その頃の私はまだ、イエスの衣の裾(すそ)にそっと手を触れた長血の女のようでありました。彼女はまだ、イエスとの関係においても、癒されたことにも自信がなくて、群衆が取り巻くイエスの前におずおずとしか出れなくて、その後どうなるのか全く自信がありませんでした。私もそうだったと思います。

  先日、寝床に入ってウトウトとしかけたら向うのベッドから声がしまして、「今のあなたのイエスは5、60歳だ」と言うのですね。若い頃は「若々しい青年のイエスだったのに」ですって。この「だったのに」は、賞賛の意味なのか、非難の意味なのかどっちでしょうか。長年の定点観測をされて来て、なるほどと思いました。

  若い頃というのは、誰かが信頼をもって見守ってくれるなら、それによって変えられることがあります。少し年齢の上の人が励ましてくれたり、信じてくれているのが分かるとそれに応えようとするからでしょう。年齢が上でなくても、ここには若いご夫婦の方もおられますが、相手をしっかり信頼して行く。不満でなく信頼の言葉を語っていく、すると相手は応えてきます。

  人間っておかしいですね。私は親から、「お前は魚の骨を上手にとってキレイに食べる。いい子だ」ってほめられて育ちました。すると世界中で一番きれいな魚の食べ方をする子どもになろうなんて思いました。20代初めに川崎の関田寛雄牧師に出会いました。そして先生に育てていただき、信頼をどれだけされたか心配をかけたか知りませんが、やはり信頼もしていただいたのでしょう。それがその後の40数年間の歩みを決めたと思います。

  青年テモテが自分の使命を発見したのは、こういう仕方によってでした。パウロは、テモテの中に神の賜物があることを見抜いて、彼を絶えず励まし信頼しました。またテモテのために、3節に「私は、昼も夜も祈りの中でたえずあなたを思い起こし」とあるように、テモテのためにパウロはしばしば祈ったのです。たえず祈られれば必ず育ちます。子ども達も同じです。パウロの祈りによって彼は育てられて行ったのです。
       (つづく)

         2008年6月22日
                                        板橋大山教会   上垣 勝
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  (今日の写真は、国道沿いの田園風景。フランスの田舎のウオーキングは最高のレジャーです。小腹が空けばパティスリに入ってお勧めを買って歩き食いしたり、食事時にはパブやレストランに入るのが楽しみ。)