世界を包んだ12人 (下)


                                       
                                            マルコ3章13-19節   
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  最後にイスカリオテのユダです。聖書は、「このユダがイエスを裏切ったのである」と記します。だがユダも12弟子の一人としてイエスによって選ばれたのは確実です。

  今日の聖書は、「イエスが山に登って、これと思う人を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。そこで12人を任命し、使徒と名づけられた」とありました。しかしルカ6章を見ると、12弟子の選びのためにイエスは夜を徹して神に祈られたとあります。

  弟子たちはイエスの好みや思いつきで選ばれたのではありません。今日は、「世界を包んだ12人」という題ですが、この12使徒によって全世界の人に神の福音が宣べ伝えられるのですから、失敗するような選びでなく最もふさわしい人を選ばなくてはなりません。これはどんなに大変なことかです。だから、夜通し一人ひとりのことを神に祈って選び、夜が明けるまでかかられたのです。中でもイスカリオテのユダを選ぶかどうかは最も時間がかかった。なぜ自分も神をも裏切るユダを選ばなければならないか、彼を弟子に選べば返って大変なことにならないか。神のご計画が阻まれるのでないか。こうして祈りの末にユダも選んでいかれ、気づいたら朝になっていた。

  しかし彼を選ぶことによって、イエスを裏切る者にも神の愛は届いているということを人類に示されたのです。神の愛から漏れる人はどこにもないことを示すには、ユダを選ばなければできないことです。ユダの選びはそんなぎりぎりの所での選びです。このように12使徒の選びの背後にはこういう真剣な汲みつくせない愛と祈りがあったのです。

  12使徒。これは先ずイスラエルの12部族を象徴します。しかし現実のイスラエルは神の意志を行えませんでした。そこで新しい神のイスラエルとしてキリスト教会が選ばれ、12使徒が世界の地の果てまで大きく包む伝道をして行きます。

  その為には勇猛果敢な男たちも要りますが、冷静沈着な男たちも要ります。また、繊細な人も、隠れた目立たぬ所で不言実行で良い働きをする人も、疑ったり批判したり慎重になったりする人も必要です。そして12人の色んな傾向の人が用いられてこそ、全世界を大きく包む福音宣教がなされうるのです。だから彼らは一色ではありません。一色になったら世界を包めないのです。かえって異質な人を排除しかねません。

  昨日でしたかテレビで、蜜蜂の大量脱走だか大量死だかというテレビをやっていました。アメリカのことです。アーモンドの広大な果樹園に蜜蜂を放って、蜜蜂はアーモンドの密だけ何週間も吸っていると非常に病気に罹りやすくなったり、ストレスで集団脱走したりする。色んな蜜を吸わなければならない。また蜜蜂の競争相手もいなければならない。イエス様はそういう自然のなりわいも、人間のあり方もよくご存知だったのではないでしょうか。

  日本基督教団の中にも今、一色にしようとする人たちがありますが、それは結局は自らの視野を狭め、やせ細らせてしまうでしょう。色んな傾向を持つ者がいないと蜜蜂の象徴的な例のように、教団も教会も必ず病気になります。それはキリストの弟子の多様な選びにも逆行することです。

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  では色んな個性の人がいればそれでいいのかというと、そうではありません。12弟子の選びでさらに大事なことは、14節にある、イエスは「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させる」ためであったとある事柄です。

  使徒たちが世界を包む12人であるためには、いつもイエスのそばに置かれなければなりません。彼らの最大の務めはイエスから離れぬことです。他に行かぬことです。キリスト者の務めもそうでしょう。むろん場所的には離れることがある。しかし距離は離れても、信仰的にはいつもみそばから離れないのです。イエスの十字架の死後は復活のイエスから離れない。弟子たちはそのために選ばれたし、私たちキリスト者も洗礼を受けているのはキリストのみそばに置かれるためです。家事をしていても職場にあっても、キリストのおそばに置かれているし、復活のキリストもそばにいて下さっている。

  その様にしてキリストと交わりを持つ者が、派遣されるのです。使徒とはアポストロスといいます。神から前に投げられること、遣わされることがその原意です。それはキリストのメッセージをもって全権委任大使として遣わされるという意味です。ですから、私たちは家庭や職場にキリストの代表者として派遣されている。でも「私はキリストから派遣されています」と大声で言えない。都合が悪くなりますからね。言えないんだけれど、見えぬ方から派遣されているのですよ。

  最後に、「世界を包んだ12人」と言いましたが、それでも漏れる所がある。それにユダはイエスを裏切って脱落します。それで後釜にマッテヤが選ばれます。でもまだ漏れる所がある。それで復活のイエスから選ばれたのがパウロです。彼はいわば漏れる所で使命を果たしていきます。神様はパウロを選ぶことによって、さらに深いところから人類を救おうとされたのです。

  事実パウロはコロサイ書で、私は「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けた所を身をもって満たしています」と書いています。イエスの十字架の死は救いのために不十分であったというのではありません。それで十分でした。だからこそ、その十字架の福音をまだ知らぬ人に届けなければなりません。キリストが苦しんで下さっているその苦しみが、全世界の人々に余す所なく届いていることを伝えなければならない。そのために彼は十字架の意味、復活の意味を一段と深いところで捉えたのです。そしてパウロは、キリストの苦しみの欠けた所をその身で満たして行ったのです。

  私たちも、キリストの恵みがまだ届けられていない所に届け、欠けた所を補うために、キリストから派遣されているのでないでしょうか。

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  時間が長くなりましたので簡単にしますが、秋葉原の事件のことです。非常に珍しくこの日本の事件は、直ちにその日の夕方、イギリスの新聞で報道されました。25歳の青年が、「生きるのに疲れた」「あらゆる事がいやになった」と言って大変な事件を起こしたこと、最近の非常に多くの不安定な青年たちの身分、既成の日本社会の崩壊などが背後にあると書かれていました。

  不安定な派遣社員の身分、25歳で将来への当てがないこと、私は青森にいたので分かりますが青森高校は進学校です、同級生はもう色んな責任をもって社会で働いている、だが自分は一人前の男として責任も何もない職場にいる。人の尊厳を傷つけられたような社会への思い、悲観的な思い、その思いを募らせて凶行に及んだのでしょう。彼はとんでもないことを起したわけで弁解の余地はありません。罪を償わなければならない。被害者たちの怒り、憎しみは当然です。

  日曜の夕刊はありませんし、翌朝は新聞の休刊日でしたから月曜日の夕刊でやっと新聞の報道がなされました。しかし火曜日の朝日新聞の社説は、「こんな事件を起こすなんて犯人は身勝手だ、凶行にいたった心の中がいまだはっきりしない」と書いていました。しかし、私は凶行にいたった心の中ははっきりしていると思いました。

  ひと言で言えば、罪の問題です。人から孤立もしているが、神から離れ、生きる意味を失った上に、先が見えない生活。人生への不安と絶望の中での犯行です。「すっかりいやになった。生きるのに疲れた」という言葉が象徴しています。彼には道徳でなく、生きる意味が語られ、何よりも神の愛が注がれなければならない。社説のように責任追及だけでは問題は解決しません。

  今日の聖書に、12使徒たちは宣教と「悪霊を追い出す」ために遣わされたとありました。悪霊というのは自分も他人も愛せなくする霊的な力です。今の自分を許せない。そして他人も許せない。そして人生を自暴自棄にしてしまうニヒリスティックな悪魔的な霊の働きです。世界をも爆破させたくなる霊です。

  派遣、フリーター、無職。もう先がないという思いにさせられた。それは所詮、悪魔的なものの仕業です。競争社会の中に働くいわくいいがたい悪魔的な力です。

  これは教会の責任です。イエスは弟子たちをそのために派遣されたのです。他人事ではない。あの人は悪いとかそんな問題ではない。新聞も身勝手だというだけの問題では済まない。私たちの社会の責任として考えなければならないことです。

世界を包んだ12人。変な題でしたが、イエスの弟子の選びには非常に考えさせられるものがあります。
            (完)

       2008年6月15日
                                        板橋大山教会   上垣 勝
  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  (今日の写真は、丘の斜面にあるChazelle村からの平凡な風景。)