赦されていますか (下)


    
                                             マルコ2章1-12節     
                                 (4)
  アメリカ大統領選挙民主党候補に47歳のオバマ氏が決まりました。今朝の外国の新聞では、クリントンさんがオバマ氏を支援すると決断したと報じれられていました。今度こそ良い大統領が出るようにと、世界の人が注目しています。

  日本では考えられないことですが、彼の父親はケニヤ人です。例えば首相候補者の父親が韓国人であるとか、中国人であるとか、フィリピン人であるというのは日本ではありえないことです。アメリカには色んな問題もありますが、この点では大変驚きます。フランスでもサルコジ大統領は色んなことが言われますが、両親は確かチェコかどこかの人で、移民でフランスに来たわけです。国際化はそういう所まで今は進んでいます。

  オバマ氏の父親は、だいぶ前の話ですが当時のケニヤ政府のブラックリストに載っていた人物です。白人から差別され、職を転々とせざるを得なかったようです。オバマ氏は、この父がやがてアメリカ留学中にアメリカ人の貧しい白人女性と出会い、結婚してその間に生まれました。当時、全米の殆どの州ではまだ白人と黒人の結婚は禁止されていたのです。許されていませんでした。

  父はしかし、オバマ少年がまだ2歳の時に妻子を置いて出奔します。ケニヤに帰ったか、世界のどこかをほっつき回っていたのか分かりませんが、最後はケニヤに帰って交通事故死しました。こんな中で、オバマ氏は若い頃は相当心の葛藤を幾度も経験しました。また更に、白人の母も祖母も、黒人である彼の苦労を理解することができなかったのです。彼はアメリカでブラックとして生きることの難題を抱えて育ちました。アメリカの家は貧しかったし、ケニヤの方は父は帰ってきませんし、ケニアの家を守る祖母は、その家を植民主義者によって火をつけられて焼き払われたのです。怒りや悲しみやどうすることもできない不安や憎悪の中に置かれていたに違いありません。自分が生まれたことさえ呪うことがあったかも知れません。

  しかし、彼の持つこの弱みや短所や逆境が、彼をただ者ならぬ人物に創りあげて行ったのです。むろん彼はキリストの罪の赦しにも触れています。これ無しにはこれ程の逆境を止揚することはできません。これらの問題をなお持ちながら、根源的な所ですっかり自由にされて行った。そして黒人であることを引き受け、他の黒人たちの重荷やつらさを自分のこととして担い、白人の課題も同じようにして担おうと、新しい歩みを始めて行ったのです。

  彼も生まれつきの盲人のように、彼がもって生まれた困難な環境は、神のみ業が現れ神の栄光が現われるためであったということです。今後、大舞台に立ってどうなるか知りませんが、今のところはほぼそういうような歩みをたどって来たようです。

  彼のような大物に続いて小者のことで申し訳ないのですが。私は時々顔がパッと真っ赤になります。少女だったら美的な可愛さもありますが、髪の毛が薄れて、昔は隠れていたんですが頭の先まで茹蛸(ゆでだこ)のようにまっ赤になる、それがまた一段と恥ずかしい。これを、薬を服用したり手術したりして治療する人がいると知り驚きました。またこういう人をターゲットに、それを鎮める薬を開発しているのが製薬会社だというのです。

  何しろ顔が真っ赤になる人は、口下手で人前で話すのが苦手だったり、すぐ怒り出すとか、社交下手などと陸続きにあるというのです。それだけでなくギャンブルに走ったりする人や、家庭内暴力とか、盗みをする人、その他具体的に申しませんが色んな傾向の人と類縁関係があると言うのです。製薬会社がそう考えて薬を開発しているらしいです。だってこの種の人々は総計では人口の何十%にも達する巨大市場なわけで、製薬会社は虎視眈々とその分野での商売を狙っているのです。

  でもイギリスのイースト・アングリア大学の先生が、「恥ずかしく思ってまっ赤になることは、病気じゃない」って書いていました。私はホッとしました。救われた思いでした。それに続いて、「もしブラッシング(真っ赤になること)が根絶されたら、何か重要なものが失われてしまうでしょう」と記していました。「根絶」とは「薬で根絶されたら」という意味でしょう。

  顔がまっ赤になっていいんですね。それは病気でも人格がおかしいのでもない。薬でごまかす必要はない。薬でごまかしてはいけない。薬でごまかしちゃあ、何か重要なものが失われてしまう。この教授はそう言っているんです。じゃあ、「何か重要なこと」とは何か。

  私は顔が真っ赤になることだけでなく、色んな問題があったからキリストの恵みに触れることができたと思っています。私にとって必要だったのは、キリストの赦しです。個人的な悩みや挫折はキリストへと導く養育係なんです。もし薬で根絶されたら、いや薬でごまかされたら、現在の私はなかったでしょう。十字架の赦しという私の重要なものが失われてしまい、キリストを必要としない人間になっていたかも知れない。その時には、これはだれの責任か、だれの罪かという所から未だに抜け出せなかったでしょう。しかしごまかさなかったからキリストの赦しに出会い、キリストに赦されることによって私は自分の寝ていた床をも担ぎ、弱さも脆さも欠点も担って、時にはそれに今なお飲み込まれそうになりつつ笑い飛ばしながら、自分の愚かさを示されることを感謝して歩むことを得させられているのです。そういう自由を与えられた。ごまかさなかったから、自分という重要なものを失うことがなかったのです。

  こんな小さい人間ですが、小さいなりに神の小さなみ業を現わし、小さい栄光を現わすように導かれたことを感謝しています。

  今日も宿題をお出しします。それぞれお考え下さい。
  1)中風の男は4人の友人によってイエス様の所に運ばれて来ました。では、私たちはこれまで誰と出会い、ど     ういう人によってキリストの所に運ばれてきたのでしょう。
  2)時々、自分をマヒさせてしまい、体や心を硬直させたりして動けなくさせるものは何でしょうか。内からの癒し     の必要性を感じるのはどういう時でしょうか。
  3)イエスは「起きて床を担いで歩け」と言われました。自分の生活の中でこの言葉はどのように理解されるで     しょうか。

      (完)

          2008年6月8日
                                          板橋大山教会   上垣 勝
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  (今日の写真は、ブルゴーニュ地方のChazelle村にあるロマネスク教会の内部)