赦されていますか


       
                                           マルコ2章1-12節
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  だいぶ前から癒しがブームになっています。香をたいたり癒しのCDをかけたり、足湯も癒しの一つだと宣伝されたりしています。あの人は癒し系だなんて言われたりしています。

  癒しを必要とするのは肉体だけでなく、心も魂も癒されることを必要としています。では心の癒しとか魂の癒しとはどういうことでしょうか。アロマの香りを嗅げばすべてが完全に癒される。とは、誰も思っていません。それらは癒しの代用品に過ぎないことです。イエスは、「この水を飲む者は誰でもまた渇く」とおっしゃいましたが、この世の癒しについても同じようなことが言えるでしょう。

  イエスはしかし、人は心も魂も癒されることを必要としていることを示すために、屋根をはがして自分の前に吊り降ろされた中風の男を癒されたのです。家中が一杯になり戸口の辺りまで大勢の人であふれていたので、男たちは屋根に上って大きいな穴をあけ、病人を床ごとイエスの前に吊り降ろしたのです。

  私たちは5人の男の大胆な信仰に驚きますが、今日はそのことは主題でないので触れないでおきますが、ここには信仰と愛と勇気と大胆さが一つになって結びついている姿を見ます。イエス様も直ちに彼らに応じられるなんてすごいと思います。

  私たちの教会のAさんは無事に手術が終ってその晩、十中八九ほぼ大丈夫ですとご家族から報告をいただきました。ほっと胸をなぜ下ろしたところです。大変微妙な脳の部分に動脈瘤があって破裂する可能性があるので、血管の中を細いカテーテルで通ってその部分に達し、非常に小さなソフトなコイルを置いて来て補強するという、極めて危険な手術をされました。もし破裂すればいわゆるクモ膜下出血です。今度は一命を落とすことになるかも知れないわけで、本当に良かったと、これは私たち教会全体の大きな喜びです。前日の午後に病室をお訪ねし、当日は丁度手術に入る直前に祈祷会があったので皆でお祈りさせて頂きました。週報の祈祷課題にありましたから覚えてくださる方もあったでしょう。

  今日の中風の男というのは、頭のもっと細い血管が詰まって脳血栓になったか、破れて脳溢血になったか、口がきけなくなったり半身不随になったり寝たきりになったりしたのでしょう。それでも大変だったと思います。

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  イエスは吊り降ろされて来た男を見て、私の「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。男が必要とするのは、先ず第一に内的な魂の癒しだと見られたのです。

  今日は「赦されていますか」という題です。道行く人たちはこれを見ながら、「私は妻から、また夫から赦されているだろうか」とか、「アイツはまだ私を赦していない」なんて思いながら歩いておられたかも知れません。また、自分の周りの色んな人の顔を思い浮かべて、赦すとか赦されるとか思いながら歩いていた方もあるでしょう。この題は、「あなたの方は赦していますか。」「夫を赦していますか」「妻を赦していますか」「彼を赦していますか」という問いと対になっているような問いです。

  しかしイエスは今日のところで、「君は赦しているのか」と責めておられません。イエスは責めるために来られてのではないし、苦しめるために来られたのでもありません。イエスは道徳家ではない。その人が過去から解放されるために、大きな愛と慈悲をもって赦してくださるのです。「何をしたのだ!」と問い詰める目で、過去を厳しく追求されるのではありません。神の国の未来から愛の目でご覧になります。信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得て救われるためです。

  そこでイエスは、彼らの信仰を見て直ちに、「子よ、あなたの罪は赦される」と罪の赦しをお与えになったのです。

  私たちは心の傷を受けて、それがトラウマになることがあります。すると中風のように体が震えたり、マヒ状態になったり、体が硬直して動きが止まります。傷が深ければ深いほど硬直がひどくて動こうとしても動けないことが起ります。

  イエスがお与えになる赦しは、中風の男に人間としての尊さ、その尊厳を授けて回復する癒しです。そしてその後に、立ち上がって床を担いで家に日常生活に復帰させることです。それは癒しの代用品でなく、心の内からの根本的な所からの癒しです。

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  中風の男は、まさかこういう言葉を聞こうとは思っても見なかったでしょう。彼は、ただその肉体が癒されることを求めてイエスの所に連れられて来たでしょう。また律法学者たちは、イエスの言葉を聞いてこれは神への冒涜だ、神おひとりのほか罪を赦すことはできないと憤ったのです。

  イエスはすぐ、霊の力で彼らの心の中で考えていることを見抜いて、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と語って、中風の男の体もすっかり癒して家にお返しになったのです。「人の子」というのは、エゼキエル2章では単純に人間をさす言葉です。だがダニエル書7章では、神に由来する天的な存在を意味しています。イエスの言葉を聞いて、ユダヤ人たちは何を語っていらっしゃるかをすぐに理解しました。

  ですからイエスはご自分が神への冒涜と見られて、ユダヤ教当局者たちから冒涜罪で訴えられることも承知で、群衆が見ている前で大変なリスクを冒してこの男を癒し、救っていかれたのです。ですから、イエスの赦しと癒しは愛の業そのものです。ここにはもう十字架が、その愛が垣間見えていると言っても過言ではありません。

  ひとつ注意して頂きたいのは、イエスは、罪が病気の原因と考えておられないことです。罪は中風の原因ではありません。その証拠に、罪の赦しと体の癒しを分けておられます。ヨハネ9章でもそうです。生まれつき目が見えなかった男についてイエスは、「彼も両親も罪を犯したのではない」ときっぱり語られました。そう語って、これは「彼の上に神のみ業が、栄光が現されるためである」と言われました。

  私たちは誰しも皆、神の赦しを必要としています。神によって義とされること、神によって「よし」とされることです。神による絶対評価を授けられるまでは私たちの魂に平安は訪れません。律法学者たちは心の中で、「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」とつぶやいたのですが、イエス様はまぎれもなく、その神的な権威をもって罪を赦してくださるのです。それは神的権威をもって私たちの存在そのものを肯定してくださることです。神の愛、キリストの愛に包み込まれ、永遠の憩いを与えられることです。

  そのようにして赦され癒される時、たとえ弱さや、脆(もろ)さや、短所を持ちながらも、そこから根源的にはもうすっかり自由にされるのです。そして神が与える自由の力によって新しいことを始め、新しいことを創り出していく力が授けられるのです。

  また弱さや脆さや短所を持ちながら、その短所をもつ故に他者の苦しみが人一倍分かるようにさせられたり、他者を深く受け止めたり、慰める者、また励まし支える者へと創り変えられたりするのです。そういう思いがけないことへと人生は展開していきます。私たちがそうなるというのでなく、神の恵みがいわく言い難い力でその様な者へと導いてくださる。苦難は決して無駄ではないのです。

      (つづく)

          2008年6月8日

                                           板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、テゼから徒歩20分ほどのにあるChazelle村の中世のロマネスク教会)