最善はこの先にある (上)


  
                                           イザヤ書43章6-21節
  
                                 (1)
  ユダヤ人は誇り高い人たちです。彼らは4千年ほどの長い民族と文化を持ち、それを捨てたことはありません。祖国を追われて世界に散らばりました。しかし地の果てに行こうと、一冊の書物を携え4千年の歴史と文化を背後にもって、粘り強く逞しく生きてきました。私たちがイギリスの同じ宿舎でほぼ1年間過したユダヤ人の青年はケンブリッジ大学のドクター・コースに通う若者で、音楽をこよなく愛する内省的なところのある青年でしたが、父祖の時代からイギリスの社会にしっかり溶け込んで生きていました。

  彼らの最も古い原点は信仰の父アブラハムの遡(さかのぼ)ることができます。彼は、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」と、主なる神に命じられ、その言葉に従ってカルデヤのウルを、またハランを旅立って、今のパレスチナ、カナンに来ました。その一人の人物の信仰の冒険がこの民族をつくって行きました。

  もう一つの原点は出エジプトです。430年にわたって奴隷生活を強いられていた彼らは、モーセによって奴隷生活から解放されエジプトを脱出しました。脱出時のエジプト軍に起った災難と、手に汗を握るユダヤ人たちの脱出行。その後40年にわたる砂漠の旅で起った数々の奇跡的な出来事。この出エジプトの事件は、やはりユダヤ人をより誇り高いものにしました。

  このようなプライドを持つことは悪い事ではないのではないでしょうか。何かがあると、原点に帰ってそこからまた出発できるのではないでしょうか。信仰はそういう原点ですし、私たちもそういう再出発のルーツを持っていると言えるでしょう。力ない私たちであっても、神様が再出発をさせてくださるのです。

  しかし、今日のイザヤ書は16節から18節で、「主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方、戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。初めからのことを思い出すな。昔のことを思い巡らすな」と語るのです。

  海の中に道を通し…とか、恐るべき水の中に通路を開かれた方…とあるのは、出エジプトのときの紅海をわたった出来事を指しています。初めからのこと…とは、それより以前のアブラハムの事跡でしょうか。昔のこと…とは、出エジプトのことでしょう。だが、それを思い出すな。思い巡らすなと言うのです。

  しかし、神がエジプトの強大な軍隊を打ち破ってくださった出エジプトの事件は、神の力はいかなる悪の力、罪の力も打ち破るものである、主なる神は世界の歴史の主なる方であるという信仰を表すものでないでしょうか。詩編47篇に、「主は、いと高き神。畏(おそ)るべき方。全地に君臨される偉大な王」とありますが、アブラハムの事件も出エジプトの事件も、その様な歴史の主なる神の発見へと導いたのでなかったでしょうか。

  ところが今、イザヤは、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思い巡らすな」と命じたのです。彼はイスラエルの人々に、神の偉大な業を忘れるように、それを考えないように勧めているのでしょうか。この時代、イスラエルはエジプトでなくバビロニアにあって難局に立たされていました。それを知りながら、イザヤはイスラエルの人たちの誇りを奪い、信仰を破壊しようとしてこう述べたのでしょうか。

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  決してそうではありません。預言者イザヤは、イスラエルの人々がノスタルジアに浸ること、昔の甘いよき思い出に浸って現実から遊離することに警告を発しているのです。時計の針は決して逆にまわすことはできません。その様にしようとしても無駄なことです。

  私たちは、過去の出来事に対して幾つかの態度が可能です。先ず一つ目のタイプは、昔の良い思い出を思い出して、現在を嘆くのです。

  月に一回、大塩先生と交代で東村山の白十字特別養護老人ホームに聖書のお話に行っていますが、その集まりでいつも童謡をみんなで歌っておしまいにします。誰もが知っている歌ですから、皆で大声を張り上げて歌います。歌い終わると、「昔は良かった、昔は良かった」という人がいまして、私も調子を合わせて「昔は良かった」と言っています。確かに、「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川」とふるさとの歌を歌いますと、心から「昔は良かった」という気持になります。この間は、もう初夏ですからシューベルトの「野ばら」を歌いました。「野ばらを見たり、野なかのバラ…。」この時も「昔は良かった」と言っていました。アレはドイツでしょ。ドイツの昔を知っておられるみたいに、「昔は良かった」たと。ただ、最近のノスタルジーには自然破壊に対する嘆きや警告も含んでいて、一概に悪いこととも言えないと思いますが。

  しかし、エジプトの肉なべを慕い、金の子牛を祀りあげてエジプトでの奴隷生活をノスタルジックに慕う。砂漠での試練を嫌って現在を嘆き、過去に戻ろうとする。人間としての尊厳も自由もどうでもいい。なりふり構わずお金、物質、経済的豊かさのためには偶像礼拝も行なう。お客さんの食べ残したものも別の客に廻す。これでは、先週お話しました「今や恵みの時、今こそ救いの日」という今を感謝するという喜ばしい生き方、また晴れ晴れした、若々しいあり方はありません。

  2番目のタイプは、過去の出来事を受け入れられないことです。これは社会的なこととしても起りますが、個人のレベルで特に起ります。これには、「ゆるせない」という感情が多く伴います。その事や、その人を思い出すと、毒々しい思いがムラムラと湧いてくることも多くある。必ずしもすべてがこれとつながる訳でありませんが、都内だけで15歳から34歳までで2万5千人の人が引きこもりで苦しんでいます。このうち30歳以上の人は1万人を占めるそうです。

  私たちは誰しも、過去とすっかり折り合いがつくわけではありません。それでごまかしたり、いい加減にしたり、やり過ごしていますが、自分の過去に触れたくない、触れられたくないという対し方をしているのがこの第2のタイプです。

  今日は詳しく言えませんが、こういう問題を抱えている方は、キリストの光によって触れて頂けばいいと思います。その罪の赦しの福音に接していただけば、人には癒し難い傷も次第に溶かされていき、傷のもとが癒えて、次第にかさぶたができ、やがて癒される時が来るでしょう。決め手は罪が赦されることです。
            (つづく)

  08年6月1日
 
                                    板橋大山教会   上垣 勝
  
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  (今日の写真は、ブルゴーニュの小さな村。テゼの丘を降りグローズン川を越えて坂道を上がる辺りから始まる村です。景色の変化を楽しみながら安全に気取らなく歩けるのがフランスの田舎の散歩です。)