あなたに喜びが授けられる (上)


  
                                              ヨハネ15:11-17
                                 (1)
  順風満帆(じゅんぷうまんぱん)という言葉があります。追い風を帆いっぱいに受けて、舟が気持いいほどに順調に進むように、物事が万事うまくいっている有様を言います。しかし、私たちがどういう人間であるかというその人の本質は、順調な時よりも困難な時、苦難や行き詰まりのときにこそはっきりと現われてきます。私たちの信仰生活も同じではないでしょうか。

  そういう意味で、使徒パウロが第2コリント6章で、「今や恵みの時、今こそ救いの日」と語っていることに、私は強い関心を持ちます。というのは、彼は「苦難と欠乏と行き詰まり」などの試練について述べながら、まるでそれを感謝するかのように「今や恵みの時、今こそ救いの日」と語るからです。私たちは肉体的な、経済的な、あるいは人間関係の試練を受けるとき、「今や恵みの時、今こそ救いの日」とはなかなか言えません。しかしパウロは実際的な行き詰まりの中で、こういう視点をもってそれを担ったのですから、どうすればパウロのような在り方ができるのだろうかと思うのです。

  私の願いは、自分がこの世から召される日までに、「今や恵みの時、今こそ救いの日」ということを、どのような日にも、たとえ試練の日でも言える信仰を持ちたいということです。

                                 (2)
  さて、先ほどお読みいただきました新約聖書ヨハネ15:11に、「これらのことを話したのは、私の喜びが、あなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである」とありました。

  これは、イエス様の最高の幸せの中で語られた言葉ではありません。むしろ十字架に磔(はりつけ)にされる前夜、もう十字架につける者たちの足音が聞こえ始めている時に語られた言葉です。この何時間か後には、公衆の面前で侮辱され、有罪の判決を受け、死刑の宣告を受けます。翌日には、ゴルゴタと言われる処刑された者たちの髑髏(どくろ)が累々ところがる処刑場にひかれて行く、暗黒の時です。聖金曜日と呼ばれるその日は、神をも神と思わぬ人々、人をも人と思わぬ人々の暴力と悪意とが、あらゆるものを凌駕し、圧倒したかに見える日でした。

  だがその予兆が既にありながら、イエス様は喜びを語られたのです。喜びに「ついて」説明されたのではありません。イエスご自身、この喜びの中に在られたし、その喜びを弟子たちに授けると語られたのです。

  これは驚くべきことです。イエスはこの夜、14章で、ご自身の平和を弟子たちに残していくことを約束しておられました。その後、ぶどうの木の譬えを話され、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と話されました。それに続いて今日のところで、平和だけでなく、平和以上に積極的なものである「喜び」について語られました。そして、「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなた方の内にいつもあるならば」、「私があなた方を愛してきた、その愛の内にとどまるならば」、「私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされる」ようになると語られたのです。

  「平和と喜び」。この2つは福音の真珠であるとブラザー・ロジェさんは言っています。私は時たま、銀座のミキモトに行きます。誰かのプレゼントを買いに行くわけではないと、わざわざ言う必要はありませんネ。300万円とか400万円とかの高価な真珠を見ていると、実に静かな美しさをたたえ、上品で、深みある輝きを放っています。マタイ13章の高価な真珠を求めている商人の譬えに、持ち物をすっかり売り払ってそれを買うとありますので、そんな最高級の高価な真珠とはどんな優雅な光沢を放っている真珠かを、この目で確かめて話したいと思ってお店に入るわけです。こんな事とも知らずに、店員さんが寄って来て親切に説明してくれます。ご苦労さまです。

  ただ、実際の真珠を持たなくても「平和と喜び」。この2つを身につけているなら、それ以上に幸いな人はないのではないでしょうか。最高級の上品な真珠を身につけていても、「平和と喜び」を持っていないなら、それは大変残念ですし、寂しいことだと思います。だがイエス様は、「平和と喜び」という2つの真珠を私たちに与え、私たちの喜びを満たしてくださるというのです。誰しも顔が輝くような素晴らしいことです。

                                 (3)
  イエス様は、何かの知識や命令を単にお伝えになるのではありません。そうではなく、弟子たちや私たちの心の内に喜びが確実に存在し、喜びに満たされるように。その内側から喜びが絶えず湧き溢れるような生活へと導かれるのです。

  「これらのことを話したのは」とあります。今日の箇所に至る14章と15章の前半で、この平和の授与とぶどうの木の譬えを話すことによって、イエスは弟子たちの内に、喜びの源、喜びの水源を置かれたのです。その水源は、いかなる試練や困難や行き詰まりの中でも決して涸れることのない水源です。「私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と6章にあります。

  「私の喜びが、あなた方の内にあるように」とは、イエスご自身が与っている喜びの水源が、あなたがたの内に据(す)えられることです。イエスは、弟子たちとの数年に及ぶ伝道生活と聖金曜日に至るまでの弟子教育で全力を尽くされたのは、彼らの中に喜びの涸れぬ泉が据えられるためでした。キリスト者になるとは、どこかから水を貰って来るような依存的な生き方でなく、やがて自分の中にこの水源が掘られることです。ヨハネ4章では、「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われています。

  私たちは、何かをなし遂げれば満足を与えられます。そういう充実感は大切です。しかし、この11節で言われている喜びは、誰かが何かをなし遂げたことで得られる満足感のことではありません。むしろ先ほど申しましたように、キリストご自身の喜びの水源、キリストの喜びが生まれ出てくる根拠、源。それがあなたの内に生まれることによって、喜びで満たされるようになると言うのです。

  私は長年、新聞をかなり詳しく読む人間でした。それで新聞から多くのものを学びました。今も学ぶ所が多くあります。しかし最近、新聞を読んでいると無性に腹が立ちます。新聞の書き方にも注文をつけたくなります。スポーツだけでなく、色んな記事で競争を煽る書き方や上昇志向の表現が目立ちますし、新聞の書き方に日本の保護主義的な傾向がにじみ出ています。一方では、自分は老人性の何かでないかと自分自身を疑いながらですが、腹を立てている始末です。皆さんはどうでしょうか。

  私の言いたいことは、以前、新聞はそうでなかったのですが、新聞を読んでいると喜びがなくなるということです。こころ乱されたり、こころが暗くなったりします。でも現実社会から遊離したキリスト教というのはありませんから、どう読むかです。

  K.バルトは、新聞の上に聖書を置いて読めと言いました。実際に新聞を広げてその上に聖書を置いて読むというのでなく、これは比喩です。この世の出来事に聖書から光をあてて読めという意味です。そうしないと心が暗くなったり、世に埋没したり、絶望的になるからです。ですから世界の歩みと切り離して読んじゃあならない。キリストは今も世界の中で働いておられるからであり、世は今もキリストの十字架の贖いと復活の希望の光を必要としているからです。

  キリストが私たちの内に置いてくださる喜びの源泉は、世と無関係な所にあるのでなく、苦難や欠乏や行き詰まり、またキリストも嘗(な)められた暴力と悪意と恐怖など、絶望的な世の状況の中にある私たちの内面に置いてくださる水源です。パウロはその水源を心の内側に与えられたから、獄中からでも人々を励まし、「喜びの書簡」をしたためる事ができたのです。またこの世の方も、喜びを与えられること希望を与えられることを切に待っています。
                  (つづく)

      2008年5月25日

                                     板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、テゼの隣町コルマタンの領主の広い庭内に引き込まれた灌漑用水。)