聖霊の三つの働き (上)


  
                                             使徒言行録1章1-11節
                                 (1)
  今日の3節には、「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを数々の証拠をもって示し、40日間にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とありました。

  苦難とはここでは十字架のことを指します。40日の40は完全数です。40日間に渡って弟子たちに現われられたとは、彼らがイエスの復活を完全に悟るまで、これは夢やイリュージョン、幻影でなく、実際の事実であること、信頼に値する真理であることを数々の証拠によって示されたということです。

  そして彼らと食事をした時、復活のイエスは、「エルサレムから離れず、前に私から聞いていた父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなた方は間もなく、聖霊によってバプテスマを授けられるからである」と語られたとあります。聖霊によるバプテスマとは、聖霊降臨の出来事を指します。

  これは、ルカ24章36節以下の出来事と同じ日のことを言っているのでしょうか。そこでも復活のイエスが弟子達の真ん中に立って、「平和があるように」と言われ、焼き魚をお食べになったとあります。この「真ん中に立って」ということが重要な意味を含みますが今日は触れません。そしてイエスは、「父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」とおっしゃったと言うのです。この「高い所からの力に覆われる」という言葉も、聖霊降臨の出来事を予告するものです。

  また今日の8節でもやはり復活のイエスが、「あなた方の上に聖霊が下ると、あなた方は力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土に至るまで、私の証人となる」と語って、聖霊降臨の預言をなされます。

  その他、ヨハネ福音書にも、更に遠くは旧約聖書のヨエル書にも、聖霊がやがて人々に与えられるという約束が出てきます。

  このような預言が成就してやがて使徒言行録2章のペンテコステ聖霊降臨の出来事が起りました。それを覚える日が先週のペンテコステの日曜日でした。

  ペンテコステというのはギリシャ語で第50という意味です。使徒言行録2章1節にある「五旬祭」に由来します。五旬祭ユダヤ教の過越祭から数えて50日目の祭りで、同時にイエスが復活されてから丁度50日目でした。

  50日という所に一つの意味が含まれています。それは、40が完全さの象徴で、弟子達がイエスの復活をしっかり悟るまでに必要だった日数だとすれば、その人間の悟りをも越えて50日目にペンテコステは神の恵みのわざとして起こったということです。神の霊は人の力を越えた、超越的な自由な神の働きだということです。

  そしてその日、神の霊である聖霊は「一人ひとりの上に」とどまり、一同が聖霊に満たされます。そして霊が語らせるままに、他国の言葉で弟子たちが語り出します。それが2章に出て来るわけです。今日は詳しく触れませんが、神の霊が「一人ひとりの上にとどまる」人格的な出来事であると言うことは大事です。しかも「一同は聖霊に満たされ」、それが集合的に皆の上に起った。集合的に、人格的に起って、教会が誕生していく。そのことはとても重要です。

                                 (2)
  さて予告しましたように、今日は聖霊の代表的な三つの働きについてお話いたします。

  先ずヨハネ14章16節以下に、「私は父にお願いしよう。すると、父は別に弁護者(助け主)を送って、永遠にあなた方と一緒におらせてくださる。この方は真理の霊である」とあります。この方が聖霊です。また、「父が、私の名によってお送りになる聖霊が、あなたがたに全てのことを教え、私が話したことを、ことごとく思い起こさせる」とあります。更に16章には、「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせてくださる」とあります。

  聖霊は、私たちと共にいて、真理を悟らせて下さる霊です。世界と人間の根本的な真理、キリストとは、神とは、どういう方であるかということ、そして自分とは何なのかを悟らせてくださる方です。また真理とは十字架の出来事が持つ意味であり、キリストの苦難は人間にとって何を意味するかという、その苦難に秘められた神の奥義です。

  私たちは会社勤めをしていても色々な問題に出くわし、問題だけでなく苦難に出会って本当にいやになることがあります。家庭だって急にとんでもないことが起ったりします。その苦難をどう考え、どう担うのか。それはイエス様が苦難をどう担われたかを知ることによって、担い方が変わって来ます。担い方によっては、苦難さえも転じて莫大な恵みに変容します。その転轍機になるのがキリストの苦難に秘められた神の奥義です。

  私たちは人間ですから失敗も、エラーもあります。私自身今日はいい日だ、今日は久し振りに早く寝ようと思っていたら、夜になって大変あわてる事が起こって、それを処理するのに夜中の3時までかかってしまうと言うことが最近もありました。しかし、色んな事があってぺしゃんこになったりするんだけれど、でも新しい始まりに必要な勇気を、一歩を踏み出す勇気を、キリストの十字架は繰り返して与えてくれます。魂の傷を癒して頂いて、心の平和をもって踏み出して行けるようにして下さる。

  聖霊が明らかにして下さる真理は、単純に言えば、神はキリストにおいて我らと共にいますという真理です。既に、キリストは私たちに先立って世に勝利して下さって、私たちと共におられる。だから、「体を殺しても魂を殺すことのできぬ者どもを恐れるな」ということです。生きていると、本当のことが本当のこととして通らない、いやになっちゃう、私たちはこの世だけでは決着が着かないことが一杯ある。しかし、キリストは終末的勝利をお与えくださるのです。キリストが最後の最後に、決着をお付けくださる。そのことを知る時、私たちの足どりは軽くなります。

  第1コリント2章に、「聖霊によらなければ、誰も『キリストは主である』とは言えない」とあります。聖霊はキリストの十字架の喜ばしい奥義を示して、キリストこそ私の主である、また世界の主であるという信仰の真理を教えて下さるのです。そして、聖霊に導かれて、キリストと私たち、神と私たちが、救う者と救われる者という人格的な、喜ばしい実存的な関係を作って救って下さるのです。
       (つづく)
    
        2008年5月18日 
  
                                    板橋大山教会   上垣 勝
  
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  (今日の写真は、コルマタンの館。)