母の愛 (下)


    
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  長々と申し上げましたが、母親は絶対に乳飲み子を忘れない。本能的にそういうことは決してない。異常な状況でない限りそんなことは決して起らない。

  母の愛はそれほど強く熱く深いと預言者イザヤは述べて、その様に、神は決して私たちをお忘れにならない。決して。決してである。断じて神にはそういうことはない。いや、人には異常な状況ということがあっても、特別な事態や例外的なことは、神には決してないと言うのです。

  しかも、「たとえ女たちが、母親が子を忘れようとも、私はあなたを忘れることは決してない」と、語ります。母は強し、母の愛は強し、だが神の愛は更に強し。これが今日のメッセージの中心です。

  主なる神様は人とは異なります。人間には思わぬ変化が現われます。状況によっては、ごめんと言って置き去る母もあります。それほど頼りにならないのが私たち人間です。過失も弱さもありますし、罪もあります。状況の変化で態度がガラッと変える場合もあります。だが、主なる神は決して変えられない。また忘れられない。神はそう断言されます。

  更に、「見よ、私はあなたを私の手のひらに刻みつける」と語られます。メモ帳に書き付けても忘れることがあります。その時には、指に輪ゴムを巻いたりしませんか?それでも健忘症の私などは忘れる場合があります。

  神は、私たちを、私たちの名を手のひらに刻みつけておられるのです。どういうことかというと、神は、ご自分と私たちを決して切り離されぬということです。ご自分の手のひらを開けば、私たちが刻まれている。どこに行くにも大事に持ち運んでおられる。危険な病気に遭遇する時でも、死に直面する場合でもです。

  ここで、「私の手のひらに記す」ではなく、「刻む」、彫るというのです。書く程度なら消えることもあるでしょうが、刻み付ければ永久に消えません。どのように刻み付けられたか。イエスの手のひらにはゴルゴタの丘で太い釘が打ち込まれました。すなわちイエスの手の釘跡こそ決して消えることのなく、私たちが神の心に覚えられているという永久に消えない徴です。

  結婚しておられる方は、夫の、妻の写真を持ち歩いておられるのでしょうか。エエッ?持っていませんって?Bさんは?Bさんも!そうですか。実は私は、妻の写真を持ち歩いたことがないので安心しました。結婚指輪もしたことがありません。そら。でも、心の指に輝く指輪をはめている。いや。ガッチリ首輪を、足輪も嵌められている、ですって?

  しかし、キリストは私たちを一人ひとり手のひらにしっかり刻みつけて持ち運んでくださっているのです。

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  なぜイザヤはこういう事を語るのでしょう。それは、今イスラエルが神からすっかり忘れられ、見捨てられたように感じていたからです。14節に、「シオンは言う。主は、私を見捨てられた。私の主は、私を忘れられたと。」とある通りです。シオンとはエルサレムイスラエルの民ことです。

  何故でしょう。

  預言者イザヤの時代、BC587年にイスラエルバビロニア帝国の圧倒的な武力の下に壊滅しました。エルサレムは城壁も町もことごとく破壊され、廃墟と化し、山犬が住むところとなりました。宝物はすべて持ち運ばれ、何万という人々が奴隷とされて、貧しさの中でバビロニアに強制連行されました。そこでは重労働によって酷使され、あらゆる権利が剥奪され、絶望的な状況に置かれてホームシックにかかり、精神異常を来たすほどになりました。

  だがそれは、神がおられないことを意味しないというのです。神がご自分とイスラエルを切り離したり、捨てられたことを意味しないというのです。今もイスラエルを持ち運び、彼らが何千キロのかなたに連行されても、その只中に主なる神は存在していられる。忘れられることは決してないと、イザヤを通して神が語られるのです。

  このような強制連行は2600年前のことだけではありません。つい60年ほど前に、中国から約4万人の人たちを日本に無理やり強制連行しました。朝鮮からは、100万人以上の人たちを強制連行したのです。そして港湾で、炭鉱や鉱山で、土建工事で、軍需工場で働かせ、また従軍慰安婦として棍棒と拳骨で強制的に辱めました。このようなことは2度とあってはならないことです。戦争は決してあってはなりません。

  「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない。見よ、私はあなたを、私の手のひらに刻みつける。」

  これは私たちにも語られる言葉です。たとえ生きることにすら辛さを覚える状況にあろうと、悲観的なことに取り囲まれて、いっこう良いことが起こりそうにない所にあって苦労していても、あらゆる事柄が無益に思われ、神はおられるのかと思える中にあっても、「主は、私を見捨てられた」「主は、私を忘れられた」というような闇の中に置かれても、主は共にいてくださり、主は光として来ておられるのです。母親が乳飲み子を忘れることがあっても、私たちを決してお忘れになりません。こう15節、16節は私たちにも語っています。

  イエス・キリストが私たちを手のひらに刻みつけておられるとすれば、私たちの試練の時は、キリストを更によく知っていく霊的な、信仰を更に深める旅の一部です。その試練の時は、神の恵みを仰ぐ時、キリストの心に更に近づく恵みの時です。キリストは、私たち小さい者とも共に歩いて、その様な霊的な時にしてくださるに違いありません。
            (完)

    2008年5月11日

                                    板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、園庭の水路ににかかる橋。コルマタンの館で。)