母の愛 (上)


     
                                            イザヤ49章13-17節
                                 (1)
  今日の聖書の15節に、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか」とありました。確かに、自分の乳飲み子を忘れたり、注意を怠る母親はめったにいないでしょう。もちろん中には、夏の炎天下、車の中に乳飲み子を置いてパチンコに熱中していたという母親のことが報じられることがあります。

  薬物中毒から回復しようとしている人たちの会に出ていますと、中には昔はそういう母親だったという人たちもあります。というのは、薬中の人の生き方や考え方は、NAの冊子にも書かれていることですが、どんな形にせよ、すべてが薬物中心になるからです。薬物を手に入れること、使うこと、より多く手に入れる方法を見つけることに執着して、使うために生き、生きるために使うことの毎日になって、薬物のとりこになってしまうからです。そしてそれが更に進行して行くと、行き着くところは刑務所であり、精神病院であり、施設であり、死、自殺でしかないからです。2年半ほどの間に会った事のある何人もの人の自殺を聞いています。

  しかし、こういう母親は異常な状態です。普通ではありません。普通の母親というのは、赤ちゃんがクシャミをするだけで、風邪でないかと心配して、おでこをちょっと触るほど子どものことを気にかけています。今日の子どものウンチの色と硬さ、臭いと回数を覚えているのがお母さんです。下痢が続いた後、いいウンチが出ると、「お父さん。いいウンチよ!」と声を張り上げています。自分の朝食のメニューを忘れても子どものウンチのことは覚えているのがお母さんです。

  子どもが歩くようになると、道路を歩く時は必ず手をつなぐだけではありません。子どもを車とは反対側、つまり建物の側を歩かせます。ですから道を渡って道の反対側を行く時には、子どもを反対側に来させて、手を持ち替えて母親は自動車の方になって歩きます。車とか自転車とか人から子どもを守ってあげなければなりません。犬でも、子犬に触ろうとすると、ウーとうなります。

  このようにして、私たちは母親の細かい心遣いがあって、昔はまた別の危険があったのであって、守られて育ったのです。また母親の方も、細心の注意を自分でなく子どもの方に払うことによって、母親として育って行ったのです。

                                 (2)
  今日は5月第2日曜日で母の日です。今日は、午後に墓前礼拝があって、礼拝に来る人たちが二手に分かれていますので、ペンテコステのことは来週にお話しすることにして、今日は母の日のことに触れてみます。例年、第2週に墓前礼拝をしているので、これまで母の日について触れたことがありませんでした。

  母の日は、よくご存知のように母への感謝を表わす日として、アメリカの独立戦争後に生まれました。この独立戦争後というのが大事です。日本であまり知られていないことは、元々、母の日は、「平和と武装解除」の日。平和と命を大切にする母の願いがありました。独立戦争後に、もう息子たちが死んでいくのはいやだ、殺すのもいやだ、戦争はいやだという女性たちの声として母の日が作ろうとされたのです。

  それからもう一つの流れは、アン・ジャーヴィスという婦人が、家庭の衛生設備の改善や戦場の衛生状態の改善を訴えて、保険衛生面から家族を守る母親たちの大事さを説いて回ったことです。彼女の偉大なことは、南軍にも北軍にも分け隔てなく戦場の衛生状態の改善を説いたことです。

  アン・ジャーヴィスさんはそういうことに力を注ぎながら、教会では26年間に亘って教会学校(日曜学校)の先生をしました。晩年のある日曜日、彼女は十戒に出てくる「汝の父と母を敬え。そうすれば、あなたは、神が与えられた土地に長く生きることができる」という言葉について教会で話をして、「私たちはお母さんの大きな愛にどうすれば心から感謝を表わせるのでしょう。皆さん、どうかその方法を考えてみて下さい」と語ったのです。

  やがてアン・ジャーヴィスさんが亡くなり、翌年かその翌年、「母たちを偲ぶ会」が開かれました。多くの人が集まったのですが、娘のアンナ・ジャーヴィスさんは教会に集まった人たちに白いカーネーションを配って母の愛に感謝したのです。何年か前のお母さんの話しをずっと胸に大事にしまっていたこと、それを今、全員にカーネーションを配って母への感謝の気持を実際に表わしたことに出席者は深い感銘を与えられました。

  それが契機で、デパート王と言われたジョン・ワナメーカーという人が共感して、翌年から自分のデパートの前でカーネーションを配ったのです。こうして赤いカーネーションはまだ生きている母親への、白いカーネーションはなくなった母親への感謝を表わす花として飾られることになったのです。日本には、アメリカの教会経由で日本の教会に入って来て、今では一般にも普及しています。

  その後ウイルソン大統領が、戦地で息子を亡くした母たちの誉れを称えようと、母の日を米国の祝日にしました。また、商業主義のアメリカですから、全米レストラン協会が母の日を推進して、母の日にレストランにお母さんを招待して感謝しようという、そういう旨いことを考え付いたようです。

  そこで生まれて始めて、妻は昨日、お嫁さんのAさんから母の日のご招待を受けて、銀座に仲良く出かけ、男たちはそれぞれの家で、冷たいご飯にお茶をかけて食べてお留守番をしたようです。いや、そういう男もあったということです。

  アメリカでは、この日に、花やネックレス、お菓子や入浴剤、グリーティング・カードを贈るそうですが、宝石業界の年間売り上げの7.8%は母の日のものだそうです。今年見込まれる母の日の全米の総売り上げは3兆円といいます。景気が冷え込んでいるのにそんなに売り上げがあるでしょうか。

  でも母の日を提唱したアンナ・ジャーヴィスさんは、商業主義化に真っ向から大反対で、純粋に心から母への感謝を表わそうと生涯説いていたそうです。

  ただこれはアメリカの母の日であって、日本は殆どそれしか知りませんが、イギリスの母の日は、実に500年ほど前に遡(さかのぼ)ることができます。母の日、それはイギリスでは自分の母教会に帰って礼拝する日です。当時は若い男女は奉公に出されましたが、奉公先から休暇をもらって、母が住み、母が通い、自分も通った母の教会に帰る。そして久し振りに母は子ども達と再会する喜びの日として、母の日があったのです。

  ですから、イギリスでは、自分の生を享けた原点に帰る日。生きることの原点に戻る日として母の日があったということができます。

  それからもう一つ、イギリスでは、母マリアの日として母の日がありました。イエスの母マリアの信仰を覚える日です。
  
  (つづく)

    2008年5月11日

                                    板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、コルマタンの領主の館にある祈りの部屋。半畳ほどの小部屋。)