何を最優先しますか (上)  詩編24編1-10節


        
                                 (1)
  聖書は神とキリストに目を向けます。しかし、人間にも社会にも、この世界と地球にも目を向けます。今日の詩編は、先ず私たちをこの地球に向けさせます。

  「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。主は大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。」大地とそこに住むもの、海とその中に生きるもの。世界に住むものすべて。人も犬も猫も、羊や牛や野の獣も、また空の鳥、海の魚、虫たち。また山も谷も森も丘も、世界とそこに生きるものはすべて、主のものである。

  人間の私有物でなく、他のいかなるものの私有ではない。また偶然に存在するのでもない。これらは神のものである、と語ります。

  これは新約聖書のローマ書で、「万物は神によってなり、神によって保たれ、神へと向かっている」と書かれることと呼応します。これは世界とそこに住むものに対する祝福の宣言であり、神のほか何ものも恐れる必要はないという恵みであり、あなた方は神に愛されているという約束でもあります。

  オーストリアのすぐ下に原生林が生い茂るタスマニアという大きな島があります。その原生林を守る環境保護団体の合言葉は、「私たちが大地を所有しているのでなく、大地が私たちを所有している」という島の原住民の言葉です。単純な言葉ですが、これは根本的な真理であり、現代人が忘れがちな事実です。私はこの現住民の言葉と共に、それをも大きく包むものとして、「そして、その大地を神が所有している。」これが今日の詩編が語ろうとしていることだと思います。

  東京に住んでいると、根本的な単純な事実が見えなくなります。目に入るものは地下でも、地上でも、高層でも人工物が溢れ、大自然に触れることは滅多にありません。「大地が私たちを所有している」というより、人間が土地を所有し東京と首都圏を成り立たせている。大地は私たちのものという方が、日常の感覚に近いかも知れません。

  むろんこれは錯覚です。私たちはこの大地から生まれ、また大地に帰っていく小さな存在であるという事実は、誰も動かすことはできません。

                                 (2)
  「主は大海の上に…潮の流れの上に…」とありました。

  地球の海について学んだことを少し申しますと、この星は水の惑星と言われます。確かに宇宙から見る地球は青く輝いた美しい星のようです。その表面の4分の3は青々した水で覆われています。この水は驚くほど熱をよく吸収すると共に、巧みに熱を放出するそうです。海があるからこそ、地球の温度は急激に変化しないですんでいます。海は気温の巨大な調節器の役割を果たしている訳です。

  また、太陽から来る光と熱によって、海流が作られます。熱帯の水が、冷たい北極や南極からの水と混ぜ合わされ、海面と海底の水が大いに攪拌(かくはん)されています。2つの海流がぶつかる所は、温度差によっても塩分の濃度の差によっても巨大な攪拌が起こって、そこに海の生物たちの有り余るほどの豊かさが現われるのだそうです。

  土の中もそうですが、海の中ほど途方もなく生命の豊かな所は他にありません。コップ一杯の水の中にも、数えることのできない程の微生物が生きています。この微生物から始まり、小魚から大きな魚、そして大型の哺乳類に至る全てのものは、互いに食物連鎖の中で共生しあって生きています。

  「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むもの」を、神がその様にお作りになったからです。

  「主のもの」と言います。「主のもの」とは、主に愛され、慈しまれるものという意味です。

  大地や世界が「人間のもの」だという時には、人間のものだから勝手にしていい。したい放題にしていいという事になりかねません。太平洋に漂うプラスティック製品の量は今膨大なものになっているということを暫く前に申し上げました。これも人間の勝手さの現われです。でも、「主のもの」という場合は、意味が全く違うものに変化します。大地と世界、そこに満ちるものは、主が愛され、尊ばれるものだということです。

  「神に愛されている」ということは、人生で一番大事な、最も優先すべきことです。ヘンリー・ナウエンという人は、「あなたは良い所がない。くだらない存在だと言われることは、私たちの最大の罠だ」というような意味のことを語っています。

  確かに、あなたの価値は低い、これを直しなさい、あれを直しなさいと言い続けられて育つと自信が持てません。あなたは貴い存在だと言われて育つのと大きな差ができます。他人から言われ、自分の中からもそんな声が聞こえる。自分自身を拒む声があると、伸び伸びできませんし、輝きを失ってしまいます。これは最大の罠です。

  しかし、あなたは「主のもの」。主はあなたを愛しておられる。あなたの存在の価値をご存知であると言われるのです。

                                 (3)
  さて、3節から6節は、どのような人が神の前に立つことができるかと問うて、「それは、潔白な手と清い心を持つ人。空しいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はその人を祝福し…」と語ります。

  適度の競争は社会に必要です。私は餃子が好物で、この辺りに餃子屋が10数軒ありますが、大山に来て妻に隠れて食べ歩きました。同じ日に何軒も食べ歩いてこそ公平な味の比較ができると信じて、何軒か次々食べ歩いたこともあります。そして安くて美味しい店を見つけました。満州餃子という店で、一皿6個で210円です。180円の店もありますが5個です。それに味が劣ります。

  競争は大いに結構。もっと美味しいお店ができたら、妻には浮気はできませんから、餃子屋の浮気はするつもりです。

  でも、行き過ぎた競争社会は決してよくありません。過当競争が過ぎると、「潔白な手と清い心」が失せて行きます。利潤追求と資本蓄積のために人を欺き、騙して、危険な営業がなされるとなれば、企業を滅ぼし、国を滅ぼし、国民を滅ぼします。

  10数年前、ペルーの日本大使館事件というのがありました。ゲリラが大使館員と一般人を人質にとって、何日も大使館を占拠して立て籠もりました。最後に解決を見たのは、シプリアニ大司教という人が勇敢にも中に入って話し合ったからです。その年の秋、日本政府に招待されて来日しました。何日か滞在して帰国の日に、日本の印象を聞かれて、率直にこう述べたそうです。日本の姿は、「経済的には大国ですが、精神の空白を感じます。」

  「精神の空白。」僅かな滞在なのに、まさに図星だと思いました。今日の言葉で言うなら、「空しいものに魂を奪われていませんか。」世界第2の経済大国ということで、何か大切なものを忘れていませんか。何かに欺かれていませんかという警告に聞こえました。

  あれから10年ほど経ち、数年前、その少し前の小泉政権頃から色々な偽装事件が後を絶ちません。この間も、高級ブランド化している「比内鶏」の燻製の偽装事件がテレビで放映されていました。1羽ゼロ円か僅か10円の廃鶏を使っていたというのです。年寄りの鶏の方が肉は固くて、歯ごたえがあって美味しいから使ったと社長が言っていました。

  私は、比内鶏と同じでしょうか、老人になって脂分が減ってきています。指先に油がなくなってページをめくりにくくなっています。体も肉も固くなって来ています。人間の味はますます加わって来ていますでしょうか?年寄りの方が味がある。比内鶏も年寄りが美味しい。とすると社長の言うのはもっとも、となって…。私は何を言っているのか分からなくなっています。

  ともかく要するに、「どの様な人が主の山に上り、聖所に立つことができるか。潔白な手と清い心を持つ人。空しいものに魂を奪われることなく…」ということです。

  この「潔白な手と清い心を持つ人」というのは、ファリサイ人のような潔白さや清さではありません。それを誤解しないように、6節は言い換えて、「それは主を求める人。ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人」と語ります。要するに、求める人、求道的な人です。

  生きにくい時代の中で、社会の腐敗や悪、その罪に気づいているが、それを一挙に変え得ないかも知れない。だが、そこで「主を求める人」、そこで「主の御心を尋ね求め」解決を切に祈り求める人であることです。

  巨大な社会組織の中で生きていて、一人の力ではどうにもなりません。でもそこで、自分は取るに足らない人間だ、何らそれを変える力はないと、首を垂れて諦めるのではないのです。主のご支配を求め続け、主のみ顔を尋ね続ける粘り強い信仰を持っていくのです。
      (つづく)

    2008年5月4日

                                    板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、シャトーの庭からコルマタンの村を眺める。)