一致は愛から始まる (下)  第Ⅰコリント12章12-27節


      
                                 (3)
  「体の中で弱い部分が、かえって必要だ」とパウロが言うのは本当だと思います。

  24節の、神は見劣りのする部分を、「一層見よくして、体に調和をお与えになった」という言葉は、前の翻訳では、神は見劣りのする部分を「一層引き立たせて、体に調和をお与えになった」と訳されていました。この調和とは、元のギリシャ語では「名誉、価値、誉」という意味です。

  体の中で見劣りのする部分、弱い部分、見苦しい部分を見よくしようと心を配り、優しくいたわることによって、体全体に調和が生まれる。体全体に価値が出てきて、全体の名誉になるのだということです。

  私は今、私たちの肉体の体のことを言っているのではありません。少し発展いたしました。

  教会というキリストの体、あるいは家族という一つの体、もっと大きく社会や世界という地球を覆う神の家族のことに話が移行しています。弱い者や見劣りのする者が切り捨てられたり、顧みられない社会というのは、実はそのことによって自らの価値を貶(おとし)めているのである。貴さを台無しにしているということです。

  しかし、私たちの手の指がそうであるように、又、私たちの体全体もそうであるように、見苦しい部分をいたわり、弱い部分に心を込めて手当てし、補い合って支え合っていく。その事によって、社会に、教会に、世界に価値が生まれ、格調の高さが出てくる。聖書はそう語るのです。

  皆さんのご家庭はそうなっているでしょうか。一人ひとりの価値が尊ばれているでしょうか。いたわりと愛から、家庭や社会に品格が出てくるのです。高級品を備えれば品格が出るのではありません。エグゼクティブな格調高さは、お金があり、良いものを持つから出てくるのではありません。

  愛から一致が生まれ、愛によって強い者が弱い者や見劣りのする者を支え、強い者も弱い者によって結束を強められていく。それが家庭や社会という共同体を麗しく成り立たせていくのです。弱く見える者も引け目を感じることはありません。神様は色んな部分によって体を組み立てられているのですから。

  昨日は一日中、テレビはやかましい報道をしていました。どうしてチベットで暴動が起ったか、その原因を少しも報道しないままにです。チベットの歴史を考えれば、あの暴動はよく分かります。

  今も疼(うず)いているのは、1950年の中国軍のチベット侵入です。人口600万人のチベット人の約6分の1が虐殺されました。何と100万人です。そしてチベットが中国の支配下に置かれました。

  現在のダライ・ラマさんは。因みにダライ・ラマというのは個人名でなくローマ法王というような地位の名称です。今のダライ・ラマさんがインドに亡命したのは22歳の時です。今、75歳ほどですから、半世紀以上の長い亡命生活です。彼は15歳でダライ・ラマに就任しましたが、その年に中国軍の侵略と大量虐殺を目にしたのです。それで身の危険を感じて亡命して行きました。

  善光寺さんが今度のことで聖火ランナーの出発地を返上して、チベットの犠牲者のために読経しました。弱い人、苦しむ人たちに連帯しました。このことは善光寺さんの価値を高めました。評判が上がりました。善光寺さんは、今日の聖書の言葉に忠実に従ったとも言えます。今日の聖書は、宗教を越えての真理とも言えます。まだオリンピックは始まっていませんが、私は、今度のことで金メダルを取ったのは、中国でも日本でもなく善光寺だったと思います。

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  「一つの部分が苦しめば全ての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば全ての部分が共に喜ぶ。」指先がちょっと傷をしただけでも、体全体がズキズキ疼(うず)くことがありますから、この言葉は実感として分かります。

  とすれば、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった」私たちなのですから、キリストの体である教会に属する私たちは、互いにそういう連帯や心からの支え合いが、自分を愛するように自分の隣人を愛することが必要だということになります。

  先々週の教会総会の役員選挙で、選ばれた2人の方が辞退されました。皆さんから信頼され選任されながら辞退をするというのは言い出しにくいことであられたでしょう。しかし、お二人は事情をお話しくださって、これまでお聞きしていた以上の個人的事情、ご自分の肉体の傷を明らかにすることで、誰にでも言ってまわれることのできない話をされました。その結果、やむを得ないこととして議場が承認いたしました。私はその時、このお二人が大山教会におられることの意味を改めて感謝しました。お二人を、神が教会に信仰の兄弟姉妹として置いて下さっていることを、しっかり受け止めなければならない。信仰を共に担って行かなければならないと思いました。

  「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しむ。」こういう信仰の連帯をもって、互いに結び合い組み立てられて行く課題を神様から頂戴したと思いました。むろんお二人はこれ迄もそうですが、役員でなくても他の所で奉仕くださると思っています。

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  「私たちはキリストの体である」ということは、私たちは互いに対立的に考えてはならないという事でもあります。

  私はAさんの様にも、Bさんの様にもなれません。私が持っていない良いものを他の人が持っていて、対立的に考えれば、比較したり、競争したり、妬んだり、恐れたりするでしょう。しかし私たちはキリストの体であり、キリストが私たちの頭(かしら)です。もはや恐れることも妬むこともいりません。

  教会につながって、あの人がいるから私は嬉しいのです。自分にできないことを、別の人ができる人だから、兄弟姉妹にその人を持っているから感謝なのです。

  私は正直を言えば、長い間、「喜ぶ人と共に喜び、泣く者と共に泣く」という思いを持つことができませんでした。しかし、「喜ぶ人と共に喜び、泣く者と共に泣く」という思いは、キリストに与る同じ洗礼を受けた者の交わりの中で実際に育てられます。私自身そうでした。また、その交わりの中で「喜ぶ人と共に喜び、泣く者と共に泣く」という思いが訓練され、人間としても成長させられて行くのです。しかも、教会の中で訓練されて、それが外の世界でも発揮されて行くのです。

  「私たちはキリストの体である。」ですから、自分をキリストの体から切り離してはなりません。部外者は誰もいません。自分を部外者においてはなりません。私たちはキリストの体なのです。キリストは大きく両手を広げて、教会に集う全ての人を受け入れて下さっています。キリストは、私たち全員の中にその命が循環して、脈々と流れるように、全ての人にその命が届くように願っておられます。

  この命に与ることが大事です。キリスト全体を理解してから生きようと思ってはなりません。キリストも聖書も神も、私たちは全体を理解できません。「自分が理解したほんの僅かな福音を生きることから始めればいい」(ブラザー・ロジェ)のです。

  子どもは、自分が砂浜で発見した小さな貝殻で夢中になって遊びます。「お母さん、こんな素敵なものがあった」と言って、嬉々として生きています。そこに真理があります。小さなものでも、それに生かされていればいいのです。すると、小さな発見を何十年も続けるうちに、キリスト理解は、神理解は大きな豊かなものになって行くでしょう。神様が成長させてくださるのです。
          (完)

       2008年4月27日
                                    板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、テゼの隣り町コルマタンの領主の館。広い変化のある庭園、建物の周りに満々と水をたたえる堀を配しています。)