一致は愛から始まる (上)  第Ⅰコリント12章12-27節


           
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  今日の27節に、「あなた方はキリストの体であり、また一人ひとりはその部分です」とありました。今日の聖書は、コリント教会に集まる人たちに呼びかけていますが、あなた方はイエス・キリストにつながり、教会にあって一人ひとりはキリストの体の一部分を形成していますと私たちにも語っています。

  13節には、「私たちはユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」と書かれていました。2000年前のコリント教会には、色んな民族の人たちがいました。以前は敵対したり、反発し合っていた人たちです。しかし、キリストの名によって洗礼を受け、「皆一つの体」となった。これまでの違いや隔てはキリストによって越えられ、一つとなったと語るのです。

  このような一致への呼びかけは、イエスが来られるまでの旧約聖書の世界では皆無でした。そういう呼びかけは、周辺の世界にも殆どありませんでした。

  今の日本ではどうでしょうか。韓国や中国、フィリピン、インドネシアなどアジアの人たちを心から受け入れ、一致しようという呼びかけはあるでしょうか。日本に労働力として受け入れても、年をとって年金受給者になるまで生活者として共に生きていこうという視点はあるでしょうか。

  しかし2000年前に既に、イエス・キリストを通して、皆一つだという呼びかけが起ったのです。しかも一致への呼びかけは、新約聖書では極めて重要な事柄になりました。

  なぜそんなに重要な事柄になったかというと、一致はキリストにおいて起った決定的に新しいリアリティであったからです。神の国の光が照らされ、新しい交わりという現実が誕生したからです。

  どこの学校も今、新学年が始まりました。4月というのは小学校でも中学・高校でも、これまでの色んな学校から集まった互いに全く知らない生徒を一クラスに集めて、クラスが一つになるように先生方は苦労しておられる時期です。

  イエス様において、決定的に新しい交わりが生まれたと言いましたが、それは、孤立した個人が一つの囲いに入れられてうまく整列させられることではありません。全く縁もゆかりもなかった者たちが、イエスという一点において出会い、各々支えあい、連帯し、依存もしながら共同体を形づくるという現実が、キリストによって生み出されたのです。

  「皆一つの体となるために、洗礼を受けた」とは、そういう意味です。洗礼を通して同じキリストに属するもの、キリストの家族になったのです。

  この一致が作られるためには、その背後にキリストの祈りがあります。ヨハネ福音書17章を見ると、イエスは、「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、全ての人を一つにして下さい」と祈られました。更に、父なる神に、「私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの中におり、あなたが私の中におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と祈っておられます。

  更に、一つであるためには、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあるように、私たちがキリストにつながっていることの大事さを語られました。キリストの命を豊かに授けられてこそ、一致の実も豊かに実らせることができるのです。

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  さて、私たちは普段の人間関係の中で、この交わりや一致をどのように実現し、生き抜くことができるのでしょうか。

  先ず、今日の26節でパウロは、「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです」と語ります。また、22節で、「体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と述べ、「格好の悪い部分」とか、「見苦しい部分」とか、「見劣りのする部分」とかということを語って、神は私たちの体を造られる時に、「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起らず、各部分が互いに配慮し合っています」と書いています。

  「私たちの体で弱い部分が、かえって必要だ」というのは本当でしょうか。

  私はたまに、自分の手のひらをしげしげ眺めることがあります。「シワが増えたなあ」とか、「若い時は良かったのに」と、いたわりの眼をもって眺めているわけでは。いえ、そういう目でも眺めています。

  ただ今日はそんなことでなくて、5本の指だけをとっても互いによく助け合っているなあと思って感心します。

  親指と向かい合っている4本の指は、何かを握るために向かい合っていて、互いに協力して、大根をすりおろす時にギュッと握り締めたり、自転車のハンドルを握り締めたりします。この協力がなければ何もしっかり持つことはできません。親指はしかし、威張るわけでも指図するわけでもありません。

  むしろ指図するのは人差し指です。「あなたでしょう」とか、「君が」と咎めたり、命令したりするのは人差し指です。人差し指は、ガミガミ言う時に使いますが、この指は「お母さん指」って言われてますが…。

  それに比べ、小指というのは男性の手の中に在っても、かわいらしい女の子のような姿をしています。女性の手の中の小指はさぞ愛らしいものでしょう。私は男ばかり4人兄弟の中で育って、女っ気はありませんでしたが、変な感じですが、女の気配を小指から感じましたが、これはどういう心理でしょうか。

  この一番弱い小指があるから、人差し指から並んだ4本の指に力が入ります。小指がないと、そら、3本だけでは力が入りません。ちょっと試してみてください。

  小指という弱い子どもがいて、家族が結束するようなところがあります。障害を持つ子どもがいて、家族が結束しましたって言う方が時々あります。あれです。小指がないと、手のひらで水をすくっても殆どがこぼれます。

  こんなことを手のひらを見て考えていると、20年間、30年間、いや40年間、50年間、いやここには80年間以上も自分と一緒に働いてくれている指を持っている方々もありますが、指たちに感謝したくなりませんか。
           (づづく)

       2008年4月27日
                                    板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、テゼの隣り町コルマタンの領主のシャトーのお部屋にある F.Feyen-Perin(1863)の絵。マチスの「ダンス」に影響を与えたとか?)