試練の中でも (下)  第1コリント10章13節


     
                                 (3)
  だが、それだけではありません。キリストは死に勝利して復活されました。復活こそ最高の逃れる道です。いや、勝利の道です。

  第2コリント4章に、「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させてくださる」とあります。復活という勝利の道があるからこそ、それが逃れの道にも、希望のしるしにもなって、試練に耐える力が与えられるのです。

  絶望して投げ出してしまわぬ限り試練の出口はあります。その出口は、キリストとの出会いの入り口です。十字架の主との出会いの入り口であり、勝利者キリストの恵みに与る入り口になります。私たちは、試練の中で神の真実に出会う道が備えられているのです。

  私は、テゼのブラザー・ロジェの黙想にはしばしば啓発されます。彼は、どんな人とも神は出会って下さることを書いていて、そんな所にも神はおられたかと、ハッとさせられることがしばしばです。1991年のイースターに書かれた黙想を自由に訳してご紹介しますと、

  イエスの復活を信じることができない人も、心配いりません。そういう人であっても、神に向かって、「弱い私の信仰に目を向けずに、あなたの教会が抱いている信仰の方に目を留めてください。初代から今日に至るキリスト者たちの強い信仰に、です。私は弱い信仰ですが、彼らの比類のない信仰によって私は支えられているからです。私は小さいですが、2千年にわたる逞しいキリスト者の信仰に私は信頼しています。」そう、神に語っていいと彼は言うのです。

  私たちは、世界の教会の中で存在し、2千年の教会の歴史の中で支えられて存在していることを、雲のような無数の信仰の証人の群れと共にいることを、感謝をもって意識する必要があるという事でもあるでしょう。

  神は、私たちが子どものような小さい存在であることをご存知です。ですから、担い得ない重荷を負わせられません。どうして母親が幼児に重い荷物を持たせるでしょうか。信仰は複雑な、難解な真理ではありません。単純に、み言葉に信頼して生きることですから、学問を積んだ人しか本当に深いところは分からないというものではありません。

  万人に可能なものです。キリスト教信仰の中心は、神様と実際に活きて交わっているという現実ですから、これ以上にシンプルなものはありません。子どもでも可能なものです。

  現実の私たちの心には、信仰と不信仰が入り混じっています。マルコ9章で、1人の父親がイエスに、「信じます。信仰のない私をお助けください」と叫びました。「我信ず。信なき我を助け給え。」誤魔化さなければ、これが私たちの信仰の素顔ではないでしょうか。

  きのうの新聞の人欄に、細井順という人が紹介されていました。ホスピスの医師です。ホスピスというのは、がんの末期患者の痛みを軽減して終末医療をして看取っていく施設です。イギリスから始まり、30年程前に日本でも浜松のキリスト教の病院で始まり、現在は全国に広まって仏教系のホスピスも生まれています。

  ただ仏教系は中々難しい所があります。キリスト教ではチャプレンというのが置かれて牧師が各部屋を訪ねます。でもお坊さんが袈裟(けさ)を着て訪ねるのは嫌われるのです。お迎えが来たかと思われますので。そういうのをクリアして行っておられるのでしょう。

  細井さんは医者ですが、ご自身腎臓癌になり、「死を恐れないで生きる」という本を書かれました。それが静かに版を重ねているそうです。細井さんはキリスト者です。しかし、「神を信じているかと問われると、ちょっと分からへん。でも、神の存在が何だか匂うんです」とおっしゃると書かれていました。

  神学者から言わせると、何て曖昧(あいまい)な信仰、情けない神理解ということになるかも知れません。しかし、それが普通の私たちの信仰に近いのではないでしょうか。だが、「我信ず。信なき我を助け給え。」イエスは、その男の信仰を受け入れられたと書かれています。イエスはそういう方です。神学者より私たちの弱い心をよく知って下さっています。

  私たちは本心を言えば、「私は神を愛しています。キリストを愛しています」と断言できない事だってあります。ありませんか?それでも恐れなくていいのです。第1ヨハネ4章は、最も重要な事柄は、「私が神を愛したという点にはない。神が私を愛してくださった」という点にあると断言しているからです。

  私たちの救いは、一筋に神とキリストがして下さったことに懸かっているのであって、私たちの真実さ、私たちの信仰の度合いに懸かっているのではないのです。

  キリストは私たちを苦しめようとされません。耐え得ないような試練も与えられません。キリストは例外なく、全ての人を愛されます。キリスト者だけを愛されるのではありません。復活のキリストは、私たち一人ひとりに、「私はここにいる。私は、決してあなたを捨てることはない。決して」と言われるのです。まだキリストを知らない人にも、そう言われます。

  コンコンと湧くキリストの愛の泉、その尽きない愛の源泉に与っている限り、人として耐えられない試練は決してない。また、試練と共にそれに耐えられるように逃れる道も備えて下さるのです。だから私たちは、試練の中でも前進できるのです。

        (完)

   2008年4月20日

                                    板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  (今日の写真は、クリューニの種牧場の並木道。)