試練の中でも (上)  第1コリント10章13節


       
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  モーセが率いたイスラエルは、70年に及ぶ砂漠の放浪でさまざまな試練を受けました。パウロは、今日の聖書の少し前の10章1節から、シナイ砂漠での偶像礼拝や神へのつぶやき、不平など幾つかの事件を私たちの信仰の警告として取り上げて、12節で、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と語りました。そして13節になって、「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかった筈です。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、耐えられるように、逃れる道をも備えてくださいます」と述べました。

  この「神は逃れる道を備えて下さる」という言葉を、人を慰めるために安易に持ち出すことが多くあります。むろんこの言葉で慰めたり励ましてもいいのですが、パウロ自身は安易な慰めや、現実から逃げる道を示そうとしているのではありません。

  彼は、人生と世界には厳しい試練のあることを熟知していました。3度の大伝道旅行中に投獄や鞭打ちの刑を経験したり、川の難、盗賊の難、海上の難、偽兄弟の難に遭い、マラリヤによる高熱と眼病などで、「わたしにとって…死ぬことは利益」とさえ語る場面さえありました。試練が試練であるのは、逃げ出したくても逃げ出せないからで、その様な数々の厳しい苦難を経験したのです。

  にも拘らず彼は、「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかった筈です。神は真実な方です」と語るのです。ですから、「あなた方」となっていますが、パウロは自分の経験も踏まえて書いていますから、「私や私たちを襲った試練で」という意味を含んでいます。

  因(ちな)みに、ギリシャ語では試練と誘惑とは同じ言葉です。イエスの荒れ野の誘惑とここの試練という言葉は同じ言葉です。それで、日本語に訳す時にこれは試練、これは誘惑と訳し分けています。試練は信仰や力を試されること。避け得ない苦痛や苦難を伴います。それに対して誘惑は、避けることが出来るが、甘い誘いの言葉などで悪の道に誘い込み、結果的には苦しみを嘗(な)めさせます。

  最近、2歳4ヶ月のAちゃんは、手を組み目を閉じてお祈りが出来るようになりました。先週の礼拝で、司会のBさんが祈り始められると、手を組んで皆と一緒に目を閉じてお祈りしていたそうです。しかし、お母さんがその前に、この時間はおやつの時間でしょうか、イチゴとポップコーンを与えたらしく、目を閉じて手を組んでいたのに、薄目を開けて横に座っているおばあちゃんの顔を見上げて、見ていないのを確認してイチゴを爪楊枝(つまようじ)で突き刺して口に入れて、また手を組んでお祈りしたそうです。食べ終わるとまたおばあちゃんの顔を見上げて、こんとはポップコーンに手を伸ばしてほおばって、急いでまた手を組んだそうです。アレは試練でなく、甘い誘惑でした。

  このように、幼児だけでなく私たちも目先の甘い誘惑を受ける場合もありますが、また避けることが出来ない大変厳しい試練に遭う場合があるわけですが、それでも、「あなた方を襲った試練で、人として耐えられないようなものはない筈です」と語るのです。

  パウロはなぜ10章13節で唐突にこの言葉を書いたのか、前後関係からは分かりにくいのですが、イスラエルの人たちは砂漠における猛暑と空腹で耐えられなくなり、その試練に負けたわけです。私たちは、「これは耐えられない」と思うと投げ出してしまいます。また、だれもこんな馬鹿馬鹿しい試練に甘んずるはずはない。自分ひとりがこんな馬鹿を見ていると思ってしまうと我慢が出来なくなります。試練の大きさ小ささに拘わらず、私たちの主観が影響してきます。

  しかし、たとえ大きな試練に見えても、「神は真実な方です。絶えられないような試練に遭わせることはなさらない」とパウロは言うのです。神は真実で偽りのない愛の方です。だから、耐えられぬ試練で私たちが倒されそうになっているのを見て見ぬ振りをして見過される筈がないのです。

  ローマ8章に、聖霊は「神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださる」とあります。神は、私たちの言葉にならない祈りを聞いて執り成しても下さり、試練で倒されそうになっている者のためにも執り成して下さるのです。またこの言葉に続いて、「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益になるように共に働く」とあります。神は私たちの思いを越え、私たちの働きを越えて働いて下さるのです。

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  では試練の中で、どのように堪えられるようにし、耐えられるように逃れる道をも備えて下さるのでしょう。

  それは簡単に言えば、イエス・キリストを指し示すことによってです。単に逃れる道でなく、「耐えられるように」逃れる道をも備えて下るのです。なぜなら、イエス・キリストは私たちを活かす命の泉だからです。私たちが前進の道や冒険の道を歩み出すのに必要なエネルギー、活力を与える命の泉です。この方から、活ける泉がコンコンと絶えず湧き出ています。

  キリストほど裏切りや侮辱、苦痛や辱めを受けた方はありません。イスカリオテのユダから裏切られ、ペトロからも3度も、「私はそんな人を知らない」と語って裏切られました。私たちなら腸(はらわた)が煮えくり返るようなショッキングなことを経験されました。また、当時の宗教家たちによる筆舌に尽くし難い侮辱。ホサナと叫んでイエスを喜び迎えた民衆の、手の平を返したような寝返り。指導者たちによる民衆の扇動。そして十字架上の肉体的な極限に達するまでの苦痛と死。

  しかし極限の試練を受けつつ、なお神の前に信仰をもって真実に留まられたこと。最後の一滴まで苦難の杯を飲み干されたこと。そしてその極限の状況においてなお敵のために祈られたこと。まさに「一粒の麦が地に落ちて死んだ」のです。

  これらが私たちを力づけるのです。勇気を与えるのです。私たちはそれが出来るとか、そうしなさいとか、そういうことではありません。世界の主であるお方が、十字架でなぶりものにされても神への信頼を捨てなかったことが、私たちを慰め力づけるのです。人間には不可能な所まで歩み行かれたという事実。最もひどく嘲られながら、十字架が敗北でなく勝利であるということ。卑しめられて、そのような所まで進み行かれたお方がやがて復活し、私たちの主、世界の主、私たちの神であられる事を啓示されたことが私たちを力づけるのです。このような方を仰ぐことが許されていると言うことが、私たちに力を与えるのです。

  「一粒の麦、地に落ちて死ななければただ一粒のままである。しかし、もし死ねば多くの実を結ぶ」と言われたお方が、現実に地に落ちて死なれ、復活された。そしてやがて世界史の中で多くの実を結んだという事実が、私たちを励ますのです。

  この方の所に行くなら、耐えられないような試練に置かれることはないのです。厳しい試練に遭遇するかも知れません。だがその時にも、十字架のキリストが私たちの傍らに来て、私たちの苦痛や侮辱を、わが苦痛、わが侮辱として共に負って下さって、それらを担う活力を授けて下さるのです。その様にして、耐えられない試練にも、神は私たちを耐えうる者にして下さるのです。

  イエス・キリストにおいてそういう泉がコンコンと湧き出でています。

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  だが、それだけではありません。

     (つづく)

    2008年4月20日

                                    板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、クリューニの民家。)