自分が第一歩を (下)  マタイ5章23-24節


     
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  どうして和解がそんなに緊急なことなのでしょう。また、イエス様はどうして断固たる口調で「しなさい」と言われるのでしょう。

  ここに再び、5章の初めの、「こういう人々は幸いである」が響いていると言えます。このように思い出したらすばやく仲直りし、自分から和解を作り出す人々は「幸いである」からです。神の祝福があるからです。

  自分が、先ず第一歩を踏み出して和解を作りだそうとする。これは難しいことですが、ここに幸いがあることを、私たちはしっかり覚えなくてはなりません。私たちが率先して和解を作り出す時、その後のことは神に委ねることができます。すると心が明るく晴れます。下駄を向こうに預けたのですから。

  以前にも紹介しましたように、「私たちが赦すのは、他人を変えるためにではありません。ただ単純にキリストに従うためです」(ブラザー・ロジェ)。そうすると心は新しい春を迎えるのです。

  それにしても、なぜキリストは断固として「しなさい」と言われるのでしょう。それは、私たちの神は、「平和の源であられる神」だからです。平和の源が神であられるなら、神を求めることと、平和を求めることとは全く一つです。信仰者にとって平和を模索するのは、その源である神を模索することです。

  このことは、やがて第1ヨハネで、「神を愛していると言いながら、兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません」と、非常に深い真理を語っていることからも窺(うかが)えます。

  私たちが和解の心を持って、愛の心を持って人との問題に取り組むことが一番大事です。信仰があっても、愛がない人になってはなりません。

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  「和解の一歩を踏み出すのは向こうだ。私は何も悪くない」。そのために社会には悪くない人だけが多くて、悪者が極めて少ないのです。

  だが自分のことで反感を抱かれていると気づき、あるいはこれは反感を募らせることになる、自分が一歩を踏み出すことが必要だと単純率直に気づけば、ためらわずすればいいのです。上下関係とか男女関係とか年齢とかは関係ありません。

  イエスは、「誰が正しいか、誰が間違っているか」なんておっしゃっていません。もっと単純素朴です。

  イエスが率直な和解を勧められるのは、神が先ず私たち人間との和解の道を開いてくださったからです。神の無条件的な第一歩があるから、私たちもためらわず自分が第一歩を始めることを勧められるのです。

  この3月に、テゼのブラザー・ギランさんが日本に来られて、北海道から九州まで2週間にわたってあちこちで集会をもたれましたが、その報告がインターネットで世界の人々に宛てて書かれていました。

  テゼ共同体の働きの一つは、世界にある希望のしるしを見出すことです。問題点を見出すことに性急な私たちは、社会の中に希望のしるしがあることを見ようとしません。ですから、希望のしるしを見出そうという視点への転換は、私たちに新しい可能性を指し示しています。

  その報告の中で、京都におられる83歳の「ひさ子さん」という方を訪ねたことが書かれていました。ひさ子さんはもうかなり前に、子どもや孫たちと家族3世代でテゼを訪ねたことがあったようです。

  ひさ子さんは83歳になりながら、今も受刑者達と交流をしておられるそうです。これ迄には16年間、ある死刑囚と交流もしていられたこともありました。ある刑務所の教誨師でしょうか、チャプレンがこの男と文通してくれる人を探していて、それを新聞で知って始められたそうです。

  この死刑囚はイエスを知りませんでした。それで聖書を差し入れたりして文通を続けたのです。キリストに出会うなら必ずこの人も創り変えられるという信念を持ってなさったようです。16年というのは大変な期間です。するとある時、この死刑囚はひさ子さんに、折り入ってお願いがあります。私によって被害者になったご家族を訪ねて、赦しを願ってくれないでしょうか、と頼んだのです。

  ひさ子さんは大変なことを頼まれたわけです。困っただろうと思います。皆さんならどうなさいますか。第1、死刑囚との文通さえ中々できるものではありません。誰しも躊躇します。

  やがてひさ子さんは意を決して、犠牲者の家族を訪ねました。だが、被害者の弟は決して会おうとはしませんでした。もっともでしょう。ただ母親だけが会ってくれました。そこでひさ子さんは、心からお詫びの言葉を言ったり、自分と死刑囚の関係を述べたり、どういう話があったのか詳細は分かりませんが、色々なことが話されるうちに、最後にはその訪問は感動的な出会いになったのだそうです。ひさ子さんと母親はお互いに涙を流し合ったそうです。そんなことがあってでしょうか、その後、決して彼女に会おうとしなかった弟さんが、死刑廃止運動の担い手になったそうです。

  やがてこの男は処刑されました。そして名古屋で葬儀があったそうですが、そこには弟さんを含む多くの人が参列したと書いておられました。

  私は、ひさ子さんのように死刑囚の友になることをお勧めしているわけではありません。しかし、世界の片隅で、小さい働きながら世界の希望のしるしとなることに心を向けたいと思います。

  今日の箇所も、そういう世界における希望のしるしとなる生き方です。このような生き方はどんなに小さくても、仲直りの第1歩を自分が踏み出すことを通して福音を生きることになるでしょう。それが家庭の中であろうが、同僚との間であろうが、そういう小さな和解があちこちで創られて行く所では、またそしてそういう人たちに、キリストは、あなた方は幸いであると言われるに違いないと思います。

      (完)

     2008年4月13日
                                    板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、クリューニの町で。)