自分が第一歩を (上)  マタイ5章23-24節


            
                                 (序)
  今日の聖書のすぐ前に、「昔の人は『殺すな。人を殺す者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」とありました。ここを目にして、イエスは大変厳しいなあと思われる方がおありだろうと思います。

  これはむろん誇張した言い方ですが、なぜ誇張した言い方をされたかと言うと、感情的に腹を立て、馬鹿者と罵倒する時、恐ろしいことですが、私たちの心に相手の人格を否定し、相手が居なくなればいい、死ねばいいとさえ願っていることが隠れていることがあるからです。それは人を殺すことと同じだと、イエスは語られます。

  イエスの洞察は深く、人間の心の闇を鋭く見抜いておられることが垣間見られます。

                                 (1)
  復活のキリストは弟子達の間に行って、「あなたがたに平和があるように」と語られました。また、今日の山上の説教の5章9節で、「平和を実現する人々は幸いである」と語られています。またヨハネ福音書でイエス様は、弟子達に、「私は平和をあなたたちに残し、わたしの平和を与える」と約束をされたことがありました。

  イエスはしばしば平和を説かれました。そして、イエスが下さる平和は、世がくれるような平和でなく、もっと深い所からの平和であり、イエスご自身が地上で持っておられた神に根ざす平和であると語られたのです。海は嵐でどんなに荒れ狂っても、深海はいつも静けさを保っているそうです。イエスの心もいつも神の平和によって静かに満たされていました。

  何も起らない平和な日々というのは、長く続くと眠気を誘います。しかし、神の平和は、眠りこけるための平和ではありません。現実問題から逃避させたり、無感覚にさせる平和ではありません。

  イエス様は今日の箇所で、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら」と言われます。「祭壇に供え物を献げる」とは、神様の前に出ようとしたり、神を礼拝しようとすることです。その時、自分に反感を抱いている兄弟や姉妹があるのを思い出したなら、供え物をそこに置いて、「先ず行って兄弟と仲直りをし」なさいと言われたのです。

  誰しも過去から引きずってきた人間関係のこじれがあります。それが1つ重なり、2つ重なりして行くうちに解決は更に困難になります。

  アフリカの奥地に医療に行った医師達が、時々非常に不思議な病気に出会うことがあるそうです。先進国では決して見られない病気です。だがよく調べてみると、幾つも病気が複雑に絡んだところから起った合併症らしく、1つ1つの病気を丁寧にはがすように治療して行くのだそうです。すると合併したものが解けて行って、だんだん1つ1つの病気の本来の症状がはっきりして治療できるのだそうです。

  人間関係においても、魂の治療者であられるイエスは、複雑にならないように、兄弟や姉妹が自分に反感を抱いているのを思い出したら、すばやい対応をするようにアドバイスされるのです。

  キリストとの、神との交わりで与えられる平和は、身近な現実問題を忘れさせるものではありません。更に、社会にある不正義や葛藤から私たちを遠ざけるものではありません。そうではなく、それらの問題を静かに忍耐強く担う力を与える魂の平和です。魂の平和がなければしっかりした担い方はできません。

  ナショナルトラスト運動は百数十年前にイギリスで始まりましたが、日本では1970年代から90年代にかけて、ナショナル・トラスト運動・自然保護運動に大きな弾みを与えたのは天神崎の浜を守る運動でした。これは、高級別荘地から和歌山県新宮の浜を守る中で、日本のナショナル・トラスト法人第1号になりました。これを始め、これを担ったのは高校の理科の先生をしておられた外山八郎さんでした。外山さんは信仰に立ち、魂の平和をもって、筆舌に尽くし難い困難な運動をして行かれました。

  キリストの平和は現実社会と向き合い、落ち着きをもって問題と取り組む力を与えるものです。

                                 (2)
  さて、イエス様は、「自分に反感を抱いている」のを思い出したらと言われました。

  私たちは社会で生きていますと、全く何の意図もなく傷つけてしまっている場合があります。また、アッ、これはちょっと傷つけてしまったかなと思いつつ、そのままになってしまう事がありますし、余りに小さい事で、それを取り上げると却(かえ)って気まずくなると思って通り過している事が、相手はその事を深い所で受け止めていて赦せない思いを抱いている場合があります。また、何かよく理由が分からない向こうの反感によって自分が傷つけられる場合もあります。もしかするとこちらに原因があるのかもしれないのですが、その辺はもう分からなくなっている分けです。

  イエス様はしかし、微に入り細に渉って分析しておられません。神経質になれとは言われません。ただ、反感を持たれていると気づいたら、和解が必要だと気づいたら、先延ばしにせず、直ちに行って仲直りしなさいと言われるのです。イエスは良心に響く声を大切にせよ、と言われるのです。

  仲直りの一歩を始めるのに、長い準備は不要です。どう言おうかとあれこれ考え、相手の出方でこうなれば、次はどう言おうとその言葉も考え、しかし別の事を言われればその時は…と、次々考えていると、もう億劫(おっくう)になりませんか。先延ばししていると今度は重荷になり、負担になって、もうどうでもよくなります。職場の人間関係でよく言われる、「イエス・アンド・バット方式」がいいです。先ずイエスと言って相手を受け入れ、それから、でもこういう事はどうだろうかという話し方です。しつこくない程度に。受容が先ず先です。結婚生活で問われるのは、口を利かなくなった時どう乗り越えるのかです。どっちが折れるのか。私はいつも先に折れて来ましたが…。

  仲直りには賞味期限があります。鮮度が落ちるとダメです。むろんほとぼりが冷めてからというのもありますが。ここで大事なのは、良心に響く声に素朴に従うことではないでしょうか。

  イエス様は、祭壇に供え物を献げに来たんだから、先ず神様の前に出て、それからとは言われません。祈りをしていて、途中で気づいたら中座して仲直りに行くほどの鮮度です。「祭壇に供え物を置き、先ず行って」という言葉には、それほどの迅速さがあります。

       (つづく)

     2008年4月13日
                                    板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  (今日の写真は、クリューニの中世の町の門。今は民家に改造されていて住みたく思いました。)