あなたに愛の目が注がれている (下)  申命記12章11節


                   
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  今年は北京オリンピックがあります。開催されるでしょうが、チベット問題で波乱のオリンピックになるかも知れません。

  パウロはコリント教会に何通かの手紙を宛てました。その2通が聖書に残っています。その第Ⅰコリント9章の最後の方で、コリントはアテネに近い町ですが、パウロは今オリンピック競技を見てきたかのような書き方で、「競技場で賞を受けるのはただ一人だけです」、賞を得るように走りなさいと勧めます。信仰生活においてです。そして、彼らは朽ちる冠を得るためにするが、私たちは朽ちない冠を得るために節制する。やみ雲に走ったり、空を打つ拳闘はしない、と語って、「むしろ、自分の体を打ち叩いて服従させます。他の人々に宣教していおきながら、自分の方が失格者になってしまわぬために」と書いています。

  「自分の体を打ち叩いて服従させる」というのですから、鋭い正確なパンチを人にでなく、自分に向けるということです。打ち叩いて血がにじむ迄に、それも自己のためでなく神とキリストのため、教会のために、自分をコントロールし、打ち叩き、従わせるというのです。こういう厳しい自己鍛錬こそ、キリスト者の信仰を真実なものとし、説教者の言葉を真実なものとし、リアリティあるものにするのです。また、教会の礼拝を真実溢れるものにしていくのです。

  主が、毎年、「年の初めから年の終りまで、常に目を注いで下さる」のが、私たちの土地であるなら、私たちも毎年、「年の初めから年の終りまで」真実な礼拝者、信仰者を目指して、喜びをもって教会をたてて行きたいと思います。

  イエス様も、「神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われました。形式や儀式で礼拝するのでない。形に囚われるのでなく、それを越えたまことと真実をもった喜ばしい礼拝をする。それが神の民として招かれたキリスト教会の礼拝だというのです。

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  憂慮することがあります。それは教団の常議員会のレベルで、聖餐式は全ての人に開かれたオープンなものなのか、洗礼を受けた者にだけ固く限定されたクローズドなものなのかで議論がありますが、去年、現在の議長は、30人いる常議員会の一人である北村先生はオープン聖餐をしているので牧師を退任せよという「教師退任勧告」というのを決議したことです。しかも29人中、16人の僅差での決定でした。しかし、北村牧師の紅葉坂教会は北村牧師を支持することを決議しています。教会自体がオープン聖餐をすることを表明しています。

  洗礼や聖餐式を否定したり、キリストを否定したりという信仰の根幹に関することでは、退任勧告もありうるでしょう。だが、聖餐式の仕方という、もっと小さい副次的なことで教団が牧師退任勧告を出すというのは、行き過ぎです。このため、2,000人を越える反対署名が集められました。(退任勧告には、社会派の人たちを追い出そうという含みがあります。だが、教会は社会派・福音派などと簡単に分けえないもっと豊かなものです。)

  私の考えは、1月の講壇交換で大塩先生がお話されたのとほぼ同じだと思います。主の恵みは全ての人に差し出されています。キリストの恵みは、私たち人間に先立って一方的に届けられました。申命記にあったように、あえて私たちを選ばれたほどです。更に、神の恩寵の大きさ、その徹底さを宣べ伝えている教会ですから、聖餐においても、それを恵みとして感謝して受ける人には徹底して開かれていると考えています。

  むろん受けない人があっていいのです。その恵みに与るかどうかは、一人ひとり全く自由です。

  私たちは、キリストが勧められたような礼拝、「霊と真理」、真実を尽くした礼拝をしようとするゆえに、聖餐をオープンにするのです。十字架と復活の喜ばしい福音の徹底であり、神への賛美であり感謝から生まれたものです。

  聖餐をオープンにすれば洗礼の意味がなくなるのでないか、洗礼が無化され、聖餐も無化されるのでないかという躊躇があるかも知れません。

  「無化」というのは、無意味化し、無力化するということでしょうが、そういうことにはなりません。実際、オープン聖餐をしながら、私が来てからも何人もの方が洗礼を受け、去年のクリスマスはこんな小教会で4人の方が一斉に受洗されました。オープン聖餐にすれば洗礼を受ける必要がなくなるのではないかという心配は全く杞憂です。祝会のときのスピーチに誰しも心打たれました。聖餐に与りながら、洗礼を受けたいという思いは愈々募るのです。主の恵みはそれほどに大きいのです。

  洗礼から聖餐へという道と共に、聖餐から洗礼へという道も神さまは敷いて下さっているのです。いずれにしろ、霊と真をもってキリストの下に導かれるのであればどちらの道でもいいのです。

  教団は、多様なあり方を感謝して受ければいいだけです。多様な教会を含んでいる教団の恵みに気づきさえすれば、何もそこに問題はありません。私はクローズドな聖餐もひとつの仕方だと思います。そういう仕方をする先生や教会も尊敬します。しかし、オープンな仕方も一つの仕方です。こういうことで対立を起こす必要はありません。

  実は、聖餐に招くのは教会や教団ではありません。イエス・キリストご自身です。キリストが私たちを招いて、罪ある者も来たりひれ伏し、私の体を味わいなさい。私の血を味わいなさい。これはあなたのために裂かれた私の体です。あなたのために、主が命を捨てられたことを憶えなさい。と、皆の者が主によって招かれているのです。それを教団や教会が阻む必要はありません。

  「霊と真理をもっての礼拝。」そこからはトゲトゲしい陰気な裁きは出て来ません。むしろ多様なあり方への寛容さと、異なる者へのユーモアが出て来ます。教団は、考えの違う人や教会に対して、もう少し寛大でユーモアを持ったあり方をすべきです。すると教団はもっともっと自由で豊かになり、喜ばしい働きが日本社会において出来ます。

  人間は神ではありません。自分を絶対化してはならないのです。

  「あなたにキリストの愛の目が注がれている」のです。私たちの主の愛は広く、長く、高く、深く、みみっちくないことを、私たちの教会は今年度も大胆に宣べ伝えて行きましょう。

        (完)

       2008年3月30日                              
                                   板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、エンブレムを持った天使達。クリューニ修道院で。)