あなたに愛の目が注がれている (上)  申命記12章11節


     
                                 (序)
  私たちの教会は、毎年、年間聖句を決めてそれを礼拝招詞にし、一年間礼拝の初めに司式者が読んでいます。聖句は牧師が決めるのでなく、皆さんに選んで頂いて、その中から役員会が1つを選ぶという形を取って来ました。教会は牧師だけの教会でなく、牧師と信徒によって担われるのがキリストの教会であるからです。

  今年も10の聖句が皆さんから出され、2月のお茶の会で、役員会でなく皆さんに選んでいただきました。すると4つの聖句が同点になったのです。そこで役員会は、今年度は4つの聖句を年間聖句にして、3ヶ月毎に招詞を変えようとなりました。私たちの役員会は若いんです、頭が柔らかく進化していくんです。平均年齢は…。

                                 (1)
  それで、4月から6月に読まれようとしている聖句が、先ほどの、あなたの住む地は、「あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終りまで、常に目を注いでおられる土地である」という聖句になります。神は私たちの家庭や職場、また私たちが生きる色んな社会で私たちをお心に掛けて下さり、目を注いで下さるという聖句です。これは来週の総会で最終的に決められます。

  この申命記は、11章の前半も同じですが、イスラエルの人たちがエジプトの奴隷状態からどのように導き出されたかを述べ、モーセ十戒が記されていきます。主の恵み、憐れみ、その愛の目が注がれて来たことが繰り返し説かれます。あなた方はイスラエルの歴史を振り返る時、主がいかに大いなる御業をもってエジプトから導き出されたか、その確かな強い御手を経験して来たかと語ります。

  それは例えば7章6節以下で、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は、地の面にいる全ての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれ…選ばれたのは…どの民よりも数が多かったからではない。…どの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、…救い出されたのである」とある通りです。

  イスラエルが選ばれたのは神の一方的な恵みだというのです。選びの根拠は神の愛であり、神の誓いにあると語るのです。

  それからもう1つの選びの根拠として、9章6節以下は、「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたは頑なな民である」と言います。神がイスラエルを選ばれ第2の根拠は、あなたがたが頑なであったからだというのです。これはおかしいですね。理に適いません。しかし、神は赦しの神であることを世界に示すために、あえて頑なな民をお選びになったと言うのです。そのために、やがてイエス・キリストの赦しが必要になって行きます。

  いずれにせよ、12章11節の背後には、今申しました神の気前いい愛の決断があります。この小さな貧弱な頑なな民は、世界を祝福するために神がお選びになったと言うのです。

  4月から6月に、招詞で聞くみ言葉の背景は以上のようなものです。

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  しかし、このみ言葉を今日の大山教会の礼拝で毎週私たちに語られる言葉として聞く時、イスラエルが聞いたのとは別の意味をもって聞くことになるでしょう。

  先週、なぜこの地が板橋大山教会の伝道地として選ばれたか、その一端を話しましたので、今日は繰り返しません。この大山周辺あるいは東武東上線三田線界隈は、3年住んで見て、荒れ野とは申しませんが、色々な事件がありました。息子が親を殺す事件があり、従業員が同僚を殺して遁走する事件、色んな心中事件、1日に2度人身事故があって東上線が2回止ることもありました。高いビルからの身投げもありました。区民が52万人いればそういうこともありえます。しかし住んで見て、この土地は9節にあるように、主が約束された「誓われた土地」だという感を強くしています。

  というのは、50年前に開拓伝道がなされ、その20年後に思いがけず近くを三田線が通ることになり、板橋区役所駅が作られて、大山駅と共に二つの駅を近くに擁することになりました。当時、さぞかし教会の地価が上がったに違いありません。また、教会ができてから区民祭りもこの近所でされるようになりました。まさに、「主が御心にかけ」て下さったのです。この開拓伝道に神がエールを送って下さったと言えるでしょう。

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  さて、今年12節を礼拝の最初に聞く時、2008年度の「年の初めから終りまで、この土地は、常に主が目を注いでおられる」というだけでなく、今後いつも、年の初めから終りまで、年間を通じて私たちに愛の目を注ぎ、見張っていて下さる。そういう地に私たちはいるという風に聴くことになるでしょうし、その様に聞きたいと思います。

  もちろん私たちは生身の人間ですから、多少は右左にそれます。自分はそれないなどと言い張る必要はありません。たとえそれても、また主の憐れみの目のもとに戻ればいい。ペトロや12弟子たちのように、です。12弟子も、教会も罪を犯します。だが、イエスのもとに悔い改めて戻ることが赦されています。戻ることは真の勇気です。

  そして12節に続いて13節に、「もし私が今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば…」云々と言われ、「心を尽くし、魂を尽くして」ということを説明して18節以下に、「あなたたちはこれらの私の言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額(ひたい)に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」と書かれます。

  神の言葉に徹底して耳を傾けるということでしょうか。

  「座っている時も道を歩く時も」というのですが、日本では今、道を歩く時、人々は引っ切りなしに携帯電話をかけています。携帯電話でなく、神の愛の目が注がれていることを徹底して「心に留めよ」というのですが。

  携帯電話のことですが、あれは使っていない時も引っ切りなしに磁力線、放射線を出して中継局と連絡し合っています。携帯電話を架けるとき耳に当てて架けるわけですが、その時沢山の磁力線を出します。すると集中的に脳に当たります。これが脳腫瘍を起こすというので、ヨーロッパでは政府ができるだけ使わないように、また子供たちにはめったに使わせないように指導しています。日本政府は野放しです。もしコンクリートの部屋とかエレベーターの中で携帯電話をかけると、その壁を突き抜けるために普通より何倍もの磁力線を出して中継局と連絡しますから、それだけ脳に何倍もの磁力線が当たることになり、脳腫瘍になる率も多くなるというのです。ヨーロッパの科学者たちはそういうことを警告しています。確かにヨーロッパにいた頃、なぜ携帯電話をかける人が少ないのかと思いましたが、こういう事情があったのです。

  しかし、私がここで言いたいのは、道を歩く時も、いわば徹底して「心を留め」聞くべきは、携帯電話でなく神の言葉だということです。

  11章1節は、「あなたは、あなたの神、主を愛し、その命令、掟、法、及び戒めを常に守りなさい」と言います。「常に守る」とは、18節のように、神の言葉を心に留め、魂に刻み、しるしとして手に結び、額に付け、子供たちに教えという、心の向け方、生き方、その徹底ぶりを言っているのでしょう。

  ただ、人に対する要求でなく、自分自身がそういう生活をするようにということです。私たちは自分のことより、人に対して要求しやすい。聖書を読んでいると人の顔が浮かんで来て、これはあの人に言ってやろうとか、こちらはこの人に言おうとか、思うんです。今度妻に言い返すときに使おうとか。

  そんなことを考えると、私自身、これまで主の言葉に徹底して聞いてきただろうかという思いがします。

  だが、その様に自分が主の言葉に向かう者になる時、25節、「あなたたちに、立ち向かいうるものは一人もいない。」びくともしない人間として、信仰者として、あなたの住む地で立つようになるというのです。

   (つづく)

  2008年4月6日

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  (今日の写真は、フランス革命で破壊された長さ170mのクリューニの礼拝堂跡。2人が立つ所から前方の尖塔までなだらかなスロープになって続く巨大なものであった。)