復活の光の中で (下)  ルカ24章36-53節


                             (前回からつづく)

                                 (2)
  私たちにとって、愛する者との別れは、何を意味するでしょうか。イエス・キリスト抜きで考えた場合、それは2度と戻らない喪失です。他の者と交換できない、掛けがえのない者の喪失です。それは悲しみ以外のものではありません。これまで会話があった家に沈黙だけがあり、呼べど答えが返ってこない。寂しさがあり、静寂が身に沁みます。

  しかし、死んで復活されたキリストを介して、愛する者の死を考える時、それは残された者より一足早く復活のイエスにお会いする時です。また、私たち自身の復活に向かって、これまで以上に心を向け、望みを固くするきっかけになります。

  別れも、喪失感も、はかなさも、不条理も、混乱させられることもあるかも知れません。しかし再会の時が待っています。そして、再会は憧れや空想でなく、イエスにおいて約束され、保障されていることです。

  スエーデンのある女性が、子どもの出産の苦しみについてこう言っています。「新しい命の誕生は苦しみなしでは起こりません。地獄の痛みだけど、幸福な痛みです。」

  「幸福な痛み。」これは、死においても言えるのではないでしょうか。黙示録はこう記しています。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。…然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。」

  主イエスに結ばれて、死ぬ幸いを見出した者は、本当に幸いだと思います。

                                 (3)
  空しさをどんなに分析しても何も真理は発見できません。死を正当化し、納得しようとして色々なことが言われ、生と死の溝を埋めるために色々な本が出されます。それでも空しさは残ります。

  しかし、イエスは死んで、復活されました。イエスにおいて死と復活には分離はありません。今日のところで、復活のキリストは弟子達をベタニア辺りまで連れて行き、彼らを手を挙げて祝福し、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。弟子達は、イエスを伏し拝んだ後、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えずエルサレムの神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と書かれています。

  イエスの死と復活に分離がないだけでなく、天に昇られたこと、昇天とも分離がありません。同じ人格であるイエスが死に、復活し、天に座されます。イエスの昇天は神の右の座に着かれることですから、別れでではありますが「大きな喜び」であったのです。

  やがて弟子達が行う伝道は、こうした天の力に裏打ちされた、大きな喜びのもとで行われることになります。

  ここに真理があります。私たちは沈黙して、この真理に聞き入らなければなりません。私達も肉体は滅びますが、人格は復活して、新しい体、新しい人を着ます。

  パウロはこう言います。「地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを私たちは知っています。」地上の住みかである幕屋というのは、私たちの体のことです。地上でそれが滅びても、神によって新しい体、新しい建物が天において備えられるというのです。地上の体と天の体は違いますが、人格は続いて行くのです。

  彼は更に、「この幕屋に住む私たちは、重荷を負っていますが、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが、命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」

  私たちの復活は、新しい命、キリストの命、天の命に飲み込まれるような新しい出来事だと言うのです。飲み込まれると言っても、その命に満たされると言っても同じことです。人知を超えた、何と素晴らしい出来事でしょうか。

                                 (4)
  復活の主は、弟子達に、あなたがたは、エルサレムから始めて、これらのことの証人となると言われ、「わたしは、父が約束されたもの、すなわち聖霊をあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と、命じられました。

  弟子達は、神の力に覆われるまで、「都にとどまる」ことが必要です。いたずらに出かけても無力です。キリストの命にたっぷり養われなければならない。子育てと同じです。

  一日も早く友達と遊ばせようとして、早く行きなさい行きなさいと押し出しても、遊びません。先ずはしっかり抱きしめて可愛がってあげなければならない。そんな安心感があって、自信を持って外へ遊びに行きます。自然と。背後に安心感がないと、友達との深い交わりはできません。

  キリストが天に上げられ、おられなくなった所を、他のもので埋めても力になりません。ぽっかり開いた空虚な穴は、この世のもので埋められないものです。心配したり、我慢できなくなったりしても、空しさに耐えなければなりません。それは信仰を持たない人も同じです。神によって心が満たされない限り、本能的に、魂の根本からの安らぎを得ることはできません。

  しかし、その様にしてその空しい場所が、キリストの霊、神の霊、聖霊によって満たされる場所になる。それが大事だ、と言うのです。

  その空しさ、空虚さを経験した場所が、キリストの霊によって満たされる時、そこは私たちの経験する最も高価な、貴重な、意味ある場所になると言うことです。

  旧約聖書から聞きましょう。イザヤ書32章は、「遂に、我々の上に、霊は高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。その時、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。」

  空しさは、荒れ野や砂漠につながる可能性があります。心の荒廃に。しかしそこが主の霊によって潤される時、そこが園になり、森になり、公平となり、正義と平和と信頼を生み出すものになる。言葉を変えて言えば、公平、正義、平和、信頼をこの世に造りだす人となるということでしょう。キリストの復活の霊は、そういう働きを私たちの中にして下さる。

  またイザヤ書60章は、「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなる。あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終る」と語ります。

  私たちの持つ空しさは、時間の経過によっても、忘却によっても、根本的には静めたり和らげたり出来ません。ただ神によって満たされなければなりません。その時、その場所が内側から命で満たされ、力を受け、キリストの証人にさえ、されて行くのです。    (完)

     2008年3月23日
                                   板橋大山教会   上垣 勝
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  (今日の写真は、周りがなだらかな丘陵に囲まれたクリューニの町。)