復活の光の中で (上)  ルカ24章36-53節


                                 (序)
  今年は大変早いイースターを迎えました。イースターの日は春分の日と月の満ち欠けで毎年変わりますが、3月22日より早くなることはありません。これまで3月22日にイースターを迎えたのは、1761年と1818年の2回だけで、次に3月22日にイースターを迎えるのは2285年です。今生きている人は誰もその日を迎えられません。

  3月22日のイースターを千載一遇の日だとすれば、今日はそれに次ぐイースターの日を迎えているわけで、イースターが早いせいか、桜の花たちも喜び祝って一足早く昨日あたりから咲き始めているようです。

                                 (1)
  先ほどの聖書に、復活のキリストは弟子達のところに入って来られ、その真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われたとありました。しかし、弟子達は亡霊を見ていると思ったようなので、イエスは、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい」と言って、手と足とをお見せになった、と書かれていました。

  21世紀に生きる私たちは、「復活を信じています」と人々の前で言うのに戸惑いがあります。しかし、私たちだけでなく弟子たちも戸惑ったのです。今日の聖書を見ると、彼らは「うろたえ、疑い、ためらい、恐れ、おののき、不思議がり」とあって、彼らも信じ難かったのだと思います。

  それでイエスは手足を見せられました。復活のイエスは、亡霊でないだけではありません。復活のイエスは、手足に5寸釘の傷を持っておられ、それをお見せになったのです。キリストは傷や痛みのない、苦難と無関係な方ではありません。皆さんの苦難を思いやるに十分なお方です。しかし、そのお方が、傷を持ちながらもご自分のことは後まわしにして、「平和があるように」と言って、私たちの真ん中に入って来て、立たれる。聖書はそう告げるのです。

  怨(うら)み言(ごと)を言えば切りがありません。イエス様以上に怨み言を言える人はいないでしょう。だが言われません。傷を持ちながら、平和を語られるのです。「平和の主」とはそういう方です。

  今朝インターネットを見ましたら、イタリアの友だちからメールが来ていました。見ると美しいアネモネの花の写真がメールで届けられていました。そして、アネモネは、キリストの体から足元にしたたり落ちる血が生まれ変わった花ですと書いておられました。血ですが平和の花となったというのです。

  格差社会がどんどん進んでいるそうです。今日はそのことに詳しく触れませんが、私は格差社会は本当に問題だと言って来ましたが、もう一つのことを言いたいと思います。

  格差社会を恐れる必要はないのです。それに参っちゃあならない。豪勢な生き方をしている人たちが、若い人たちの中にもいます。弱い者を少しも気に留めず、鼻息荒く生きています。しかし、私たちは格差社会で苦しむことがあっても、どっこい「平和をもって」生きているということを示したい。そう言う人たちより、人生を粘り強く、意味深く生きればいいんだと思います。貧しくても、そこで人生をいかに豊かに生きるかが大事だし、それが「平和のキリスト」においてできるのです。

  人生の幸福は金ではありません。「平和があるように」と言って入ってこられる、手にも足にもそして脇腹にも深い傷を持ったイエスと共に、自信を持って、大手を振って生きればいい、今は、そう言わなければならないと思います。

  イエスは、手足を見せてもまだ信じられない弟子たちに、「何か食べ物があるか」とおっしゃって、焼き魚を持って来たので、その一切れを、皆の前でムシャムシャ食べられました。実に滑稽な場面です。

  復活のキリストは亡霊でなく、幻想でもないということです。現実の方であり、リアリティを持って、今も生きている方であると言うことです。焼き魚をムシャムシャ食べることで示される復活のキリストは、食卓にも、日常生活にも来て、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃる方であるのです。

  イエスの復活の聖書が私たちに語っているのは、死は敗北でも滅亡でもないということです。理性では理解できませんが、死は死で終わらないと言うことです。イエスは、旧約聖書は、「メシアは苦しみを受け、殺され、その三日目に死者の中から復活する。そしてその名によって、あらゆる国の人々に福音が宣べ伝えられる」と書いていると話され、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と語られたとあります。

  イエスは、いわば、終った所から新しく始められる方です。いったん終った筈なのに、そこから始まる方です。玉葱(たまねぎ)と同じです。

  どなたかが玉葱の水栽培を持って来られて、先週から後ろのテーブルに置いておられます。どうして玉葱と同じかと言うと、白い根っこが出ている玉葱の大きな玉はそのうち腐ります。正体がなくなります。しかし、腐って終わった時、新しい玉葱が生まれているんです。

  イエスと玉葱を比べるのは可笑しいのですが、イエスにおいて死は敗北でも滅亡でもなく、その終った所から始まる新しい出発になる。そして、ユダヤ人に留まらず、あらゆる国の人々に宣べ伝えられ、その人たちにとっても、死は敗北でも滅亡でもなく、その終った所から始まる新しい出発になると言われるのです。

  全てのものは死で終りますが、イエスにおいては死で終らない。希望が前方にあり、死の先に新しい生があるのです。
  (つづく)

   2008年3月23日
                                   板橋大山教会   上垣 勝
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  (今日の写真は、クリューニ修道院。ローマに匹敵したクリューニは、フランス革命で殆ど崩されたが何しろ大きい。礼拝堂の内陣の長さは何と187mでした。)