主がお入り用なのです (下)   マルコ11章1-11節


                             (前回からつづく)

                                 (3)
  「まだ誰も乗せたことのない子ロバ」を、「主がお入用なのです」と言って連れて来させられました。経験もなく、力も大人のロバのようではありません。イエスは、よくもまあ、そんなロバの子を用いられたと思います。

  しかし、子ロバが「主がお入用なのです」と言って曳いて来られた時、初めてなのにパニックを起こさなかったものです。

  パニック症候群なんていう病名を最近よく耳にします。遠い話と思っていたら、ごく身近な人がそういう病名を頂いて来て、自分はパニックだ、パニックだと口をパックパックさせて、自分をパニックと思い込ませているようなところがありますね。横で見ていると。

  それはともかく、子ロバは始めてのことなのにパニックを起こさなかったのは、この方をお乗せしようと、ロバなりに心決めたからでしょうか。

  詩編57篇に、「私は心を確かにします。神よ、私は心を確かにして、あなたに賛美の歌を歌います」とあります。今の訳は「心を確かにします」ですが、文語訳は、「わが心定まれり、わが心定まれり」となっていました。

  過ぎたことを蒸し返してばっかりの人がいます。だがこの詩編の人は、あれこれ言わず、蒸し返さず、心が固まった、固まったと言うと変な言葉ですが、心が決まったと言うのです。

  心が定まると、体がススッと前に進むものです。心定まって、もやもやがとれ、神を賛美できるようになったと言うのです。ロバの子でも心定まると神を賛美して、イエス様をお運びするのです。

  そして実際、子ロバはイエス様をお乗せして、坂道を登ったり下ったり、そしてエルサレムの人々の大歓迎の中を一生懸命歩いて入場し、大役を果たしていったのです。

  フランスにリオンと言う古い町があります。大きな川が合流する非常に美しい古都です。旧市街地は一軒一軒千年ほどの歴史がある建物が並ぶ中世の町で、心に深く刻み付けられる味のある建物が並んでいます。

  今から1800年以上も前、西暦177年に、この町の若い娘さんが殉教の死を遂げました。ブランディナーという名前の彼女は、人目に立たない、これと言って優れたところがあると思われない、また美人とも言えない娘さんだったと、その3年後に書かれたある人の手紙に記されています。それが残っているのです。

  ブランディナーは捕まった時、弱さのために恐怖に襲われ、平静さを失って信仰を捨てるのでないかと見られていました。ところが、彼女はキリストにすっかり委ね切っていたのです。そのため、朝から晩まで交代で拷問を加えられても、そして全身が引き裂かれて傷口が開いても信仰を捨てず、拷問する者たちの気力を失わせるほどだったのです。

  彼女は繰り返して、「私はキリスト者です。私たちは何をされても平気です」と語り続けたのです。こう語り続けることが苦痛の中で彼女自身の慰めとなり、安らぎとなり、休息ともなったといいます。ブランディナーが声をあげて祈るので、彼女のそばで拷問に耐えていた他の信仰者たちも勇気を与えられたというのです。

  今日、このような殉教は日本ではないでしょう。しかし、少しも飾ることなく、イエス様に全てを明け渡して生きたこの若いクリスチャンに、私は同じクリスチャンとして教えられ、惹かれるものがあります。

  王様の入場なら馬は化粧されて飾られ、体を覆う高貴な布、首の飾り、足の飾りなどをつけて入場するでしょう。だがイエス様は子ロバを何ら飾られません。2人の弟子が上着を脱いで鞍代わりにロバの背に掛けただけです。

  イエス様は、私たちをそのままの姿で用いられます。仮面をかぶる必要はありません。化粧することも要りません。

  ただ、私たちにも語られる「主がお入り用なのです」という言葉を忘れないことだけが重要です。「主がお入り用なのです。」これは単なる言葉ではありません。この言葉が語られる人の所に、共にキリストがおられます。キリストが一緒にいて、私たちをお用い下さるのです。子ロバは、果たしてこの人をお乗せして歩けるだろうかと心配もしたでしょう。しかし、その子ロバの心配もイエス様は担って、歩けるようにして下さったのです。

  「まだ誰も乗ったことのない子ロバ。」

  それは私だと思って、今日は小さくなって聞いておられる方があるでしょうか。しかし、たとえそうであっても、そんな私たちを、「主がお入り用なのです」とおっしゃっているのです。小さくならなくてもいいのです。分かってくださっています。ルターは、わら一本拾い上げることでもいい、それをキリストのためにする、それでいい、それが善い業だと言いました。イエス様をお乗せするとはそういうことです。業の大小でなく、それをイエス様のためにしようとすることが大事です。

  今日は久し振りに宿題をお出しします。宿題の提出は結構ですが、どうぞお家でお考え下さい。

  1)これはもうお話しましたが、イエス様はなぜ子ロバを用いられたのでしょう。もっとしっかりした大人のロバを、人を何回も乗せているロバをどうして用いられなかったのでしょう。

  2)棕櫚の日にエルサレムの人たちは「ホサナ、ホサナ」と叫んでイエスを歓迎しました。では、外側の歓迎でなく、イエス様を私たちの内側に、魂にお迎えするにはどうすればいいでしょうか。私たちの中で、イエス・キリストが王となって私たちをご支配下さるためには、どうすればいいのでしょう。私たちの疑いや不安を鎮めてくださる王となっていただくために、です。
  (完)

  2008年3月16日
                                   板橋大山教会   上垣 勝
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  (今日の写真は、クリューニ修道院のこの世の王のレリーフ。百獣の王ですがどこかユーモラスです。)