的外れの38年間 (下)  ヨハネ5章1-18節


                              (前回からつづく)

  ベトザタには大勢の病人が横たわっていましたが、イエスは一人の人に眼を向けられました。悩みを持つ人は多くいます。しかし、イエスは一人との出会いを大事にされるのです。

  私たちはあせる必要はありません。1から10に一挙に飛び越えるような生き方は、健全ではありません。土地成金の息子などはやっぱり危ないです。むしろ苦労して積み上げた人間の方が確実です。今日の一日一日が大事であり、一人の人との出会い、魂のふれあいが大事です。イエスは、「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われます。大海は一滴から始まり、一生は一日一日の少しずつの努力であり、積み上げです。

  「治りたいのか」というイエスの問いに、この男の意志はあいまいです。彼の挫折はそれほど深刻なのです。

  しかし、彼のかすかな憧れの中にも、救いへの望みがあるのを見て取られるのです。イエスの愛は細やかで、同時に確かです。そしてイエスは、「起き上がり、床を担いで、歩きなさい」と言われました。

  起き上がること、眼を覚ますこと、頭を上にして体を起こすこと。人間は他の動物と違い、頭を上にし、体で支えることによって進化しました。起きると考えが明晰になります。布団の中でゴロゴロして思い煩っていても、起きと不思議に消えて行くことがあります。

  床を担ぐこと。それは、38年間の過去に縛られる生活から、38年間の過去を取り上げ処理して行く。過去から自由になる行為です。

  歩きなさい。信仰は癒しで終わりません。信仰は歩き出すことで始まります。キリストにあって新しく歩き出すのです。

                                 (4)
  これら全てにおいて、イエスは人間の屑、無きに等しい人間をさえ愛して行かれます。長く的外れの生活を送ってきた人間を、無条件的に愛されます。

  イエスヨルダン川で、ヨハネから洗礼をお受けになりました。水から上がると、聖霊が鳩のように降り、「これは私の愛する子。私の心に適う者」という声が聞こえました。私の心に適うとは、私はあなたを喜ぶ、という意味です。

  洗礼の時にその様な言葉を聞かれたイエスは、今度は、病気でひねくれ、無きに等しい、人間の屑になってしまっているこの男に、「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ」と呼びかけて、癒されるのです。無条件的に愛されるのです。イエスが愛さなければ、誰が愛するでしょう。イエスの愛は真剣に彼に向けられます。

  彼自身は、外からも自分の心の中からも、「お前なんかは、ダメだ。見下げられるのは当然だ。価値のない人間だ」という声を聞いています。彼はその声に、少しも言い返せません。

  彼が陥っている最大の罠は、自分を傷つけ、自分の存在さえ否定する、ということです。自分は愛されるに価しない。自分は人生の落伍者だというレッテルです。

  元気な若者たちがいる一方で、別の若者たちの心を蝕んでいるのは、「私は愛されるに価しない人間だ」という、絶望という名の病です。神はそう見られませんが、自分をそう見て、自分を責めるのです。

  尾崎豊という歌手がいました。若者たちに圧倒的な人気があり、今も人気はおさまりません。最後は自殺だか何だか分からない死に方をしました。彼は、ジャングルのような町、愛の消えた町に紛れ込んだ孤独な魂を歌い、自分は愛されるに価しない人間だと歌い、心隠さなければ大切なものを守れないと激しく歌ったのです。それで若者の共感を得ました。多くの若者も、そういう激しい渇きを持っています。

  イエスがここでなさるのは、「あなたは愛されている人間だ」ということを、彼を癒すことによって証明することだけです。あなたは、自分が愛されていることを信じていい。そのことに人生を掛けていい。ジャングルに迷い込んでいても安心していいのだ。私はあなたを愛し、喜ぶ、あなたは失われないということです。的外れのあり方から、自分との正しい関係に導かれるです。

  ターニャ・グリッドというイギリスの女流作家がいます。彼女は小学校に上がる前に、母親から、「私は、坊やが欲しかったのよ。かわいくて、賢くて、黒い髪の毛のカールした男の子が。音楽にセンスがあって、スポーツも得意な」と、出し抜けに言われたそうです。それで彼女は、自分はまったく役立たない子だと考えるようになったようです。足元から土台が崩れました。

  中学2年生で友だちとウオッカなど強いアルコールを飲むようになり、いや小学4年生頃から手を出し始めていました。大学に行ったけれど、毎日二日酔いの生活です。20代は、深夜4時に恐怖におびえて目を覚ます日を送ります。新聞社に勤めますが、かろうじて自分の名前を覚えているほどの体(てい)たらくです。アルコール中毒です。地下鉄で人に向かって大声で吠えたり、自動車のボンネットを握りこぶしで叩いて壊したり、ワイン店に入って、買ったワインをラッパ飲みする女に堕ちて行きます。作家になるんですが、コカインやヘロインに手を出し始め、やがて3度自殺未遂を繰り返します。

  彼女は、「23年間、しらふでセックスをしたことがなかった」と書いています。彼女は優秀な女性ですが、母親から根底を崩され、自分の存在することを赦せなくなったのです。

  しかし遂に、彼女は麻薬からもアルコール依存からも抜け出していきます。ところが、抜け出したと思った時に、脳梗塞になったことが、昨日報じられていました。

  今日の聖書には、イザヤ書43章の言葉がBGMのように背後から聞こえてきます。

  「あなたを創られた主は言われる。恐れるな。私はあなたを贖(あがな)う。あなたの存在を買った。あなたは、私のものである。あなたは神の手の中にある。心配するな。

  私はあなたの名を呼ぶ。あなたは、大水の中を通る時も、私は共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたを燃やせない。

  私の目には、あなたは価高く、貴い。私はあなたを愛している。恐れるな。私はあなたと共にいる。」

  命であられるキリストは、私たちに命を与えられるのです。光であられるキリストは、私たちの命に、光を与えられるのです。無条件的に、です。

  男の年齢は38歳以上ですが、何才かはっきりしません。青年時代に病気になったとすれば、もう50歳を過ぎ、人生の折り返し点を過ぎていたでしょう。そうすれば、当時ですから、長く生きてもあと僅かな寿命です。

  しかし、たとえ残り僅かな寿命であっても、イエスは彼の命に光を灯されます。これまで一度も、「私はあなたを愛する。私はあなたの存在を喜ぶ」と言われたことがない男に、「あなたは愛されている」と、彼の病を癒すことによって示していかれるのです。

  彼はもはや、どこにあってもナンバーワンを目指す必要はありません。今イエスの眼から、あなたは価高く、貴く、オンリー・ワンの存在と見られていることを知ったからです。

  そして、私たちも一人ひとりも、イエスの目に価高く、貴い、掛け替えのない存在と見られて、愛されているのです。

  今日はまた宿題をお出しします。宿題の提出は求めません。それぞれでお考え下さい。

  1)なぜこの男は、イエスの質問にはっきり答えなかったのでしょう。何が彼を慎重にさせたのでしょう。
  2)自分は、人生に本当に望んでいることをはっきりイエスに語っているでしょうか。
  3)「立ち上がって、歩きなさい」というイエスの言葉は、今の自分には、どんなことを意味するでしょうか。(完)

  2008年3月2日
                                板橋大山教会     上垣 勝

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  (今日の写真は、ライン川のバッハラッハの古城に泊まった子ども達。彼らはここでライン・ダンスの練習に来ていました。)