的外れの38年間 (上)  ヨハネ5章1-18節


                                 (1)
  今日は、「的外れの38年間」という題ですが、私は誰も責めるつもりはありません。あなたは的外れな生き方をしていると言おうとしていません。安心して、聖書に耳を傾けてください。

  今日の箇所も、イエス様が安息日に病人を癒された出来事です。安息日というのは、ヘブライ語で「サバス」と言います。英語のサバスという言葉もそのままあてています。神は6日間で天地万物を創り、7日目に休まれたという創世記の故事に基づくもので、神は創造された全てのものをご覧になったところ、それらは「極めて良かった。」それで、神は創造の仕事を終えて「安息なさった」というのです。

  ですから、安息日というのは、人間がもう一度、自分も造られ世界も創られた、創造の原点に帰って神の前に出る日です。また、休息の日です。こちらの方は誰もが大事にしています。7日目に休まれたから一週間に一度休むのであって、一ヶ月目に神が休まれたとなると、一ヶ月毎に一度の休日となって、これじゃあたまったもんじゃありません。この祝祭があるからリクリエートされて、月曜日から働けます。

  それから、安息日は、神様が世界をご覧になる眼をもって、私たちも世界を見るように招かれている日です。ですから、イエス様が、安息日に一人の男を癒された今日の出来事の中に、神の愛の静かな眼差しが感じられます。日曜日の礼拝から帰って、ご家族を静かな、平和な眼差しで見ておられますか。苛立った眼でなくて。

                                 (2)
  さて、エルサレム市内にベトザタという池があります。前の訳はベテスダとなっていました。そこに5つの回廊があって、沢山の病人たちが横たわっていました。今もエルサレムに行くと、2,000年前のこのベトザタの池と回廊の一部が残っていて見ることができます。観光名所のひとつです。

  3節に、彼らは、「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」であったとあります。

  なぜそういう人が集まっていたかというと、この池は間歇泉で、時々池の底から水が吹き上がって表面が動きました。伝説では、天使が降りて来て水を動かし、動いた時に真っ先にこの泉に入った人は、どんな病気でも癒されると、言われていたからです。

  ところで、そこに、38年間病気で苦しんでいた人がいて、今動くか今動くかと泉の動くのを待って横たわっていました。

  イエスはこの男をご覧になって、「良くなりたいか」と問われました。すると彼は、「水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、他の人が先に降りて行くのです」と訴えたのです。

  ベトザタというのは、社会の縮図です。他の社会と同様に、日頃は仲良くても、大切な時には皆、人のことなど考えない。我先に降りて行く社会です。

  そういう我先の社会の中で、彼は長い間病気をして、体は弱く敏捷でもない。皆を掻き分けて、先頭を切って行く力もなく生きています。一般社会と同じく、ここでも真っ先に駆け下りて、ナンバー・ワンにならなくてはなりません。だが、彼は絶対不可能です。

  それでも今もベトザタにいるのは、もし幸運にも、たまたま自分が水際にいて、他の人たちが皆、池から離れた所にいる時に、水が動くことがあるかも知れない。そういう殆ど起こりそうもない幸運に夢を託して、ベトザタの池で暮らしていたのです。

  この男の何が問題なのでしょう。

  10節以下のところで、ユダヤ人たちがこの男の罪を指摘して、「安息日に、床を担ぐことは許されていない」と諌めたとあります。しかし、イエスはもっと深い意味で「罪」という言葉を使われます。単にルールを破ることが罪を犯すということでない。罪とは、「的を外す」ということです。

  神に対して、隣人とのあり方において、また自分自身へのあり方において的外れなあり方をすることです。

  人が何のために生きているか、その根本の所を見失ってしまうことです。与えられた命、一日一日の命を愛すること。小さな一日の業を愛して、神を賛美することを忘れてしまうこと。神から遠ざかり、神に背を向けて、神と関係なく生きることです。

  それは色々な形で起こりますが、この男の場合、「私を池の中に入れてくれる人がいないのです」という言葉に表れています。

  彼は人に期待して、自分で立ち上がろうとしないのです。無論、病気ですが、病気を理由にただ人を待っています。この言葉には、親切にしてくれない社会への責任転嫁が感じられます。神から遠ざかり、感謝することもなく、責任転嫁で人生を送っている。ここに彼の的外れがあります。

  38年間病気で苦しんで来ましたが、同時に38年間責任転嫁して来たとしたら、何と淋しい人生でしょう。彼の的外れは、長年にわたる人への甘えです。人へのもたれかかりであり、依存です。自立的でないことです。

  彼は治りたいのですが、既に諦めています。そして、人生の運命的なものの前で愚痴を言い、競争の激しさに愚痴を言い、38年間の愚痴の人生を送って来た。そこに彼の的外れがあります。

  彼の口ぶりからは、自分に残っている能力を少しでも生かそうと工夫して来た姿は窺われません。ただ横たわって水が動くのと、人が運んでくれるのを待っている。このようなつまらない人間です。

  この世の屑のような人間、卑しく、見下げられて当然な男。この男ほど、無に等しい者はないかも知れません。

                                 (3)
  ところがイエスは、彼に、「治りたいのか」と聞かれました。意志を確かめられるのです。すると彼は、先ほどの7節の言葉を言うのですが、この少しも積極的でなく、諦めと他人任せの言葉の中にさえ、イエスは治りたいという彼の意志を、僅かな芽を見逃されないのです。

  イエスは決して、私たちの救いの芽を見逃されません。「味わい、見よ、主の恵み深さを」という言葉がありますが、イエスの御眼は恵み深い目です。ヘブライ人への手紙に「神の言葉は生きていて、どんな両刃の剣よりも鋭く、…心の思いや考えを見分けることができる」とあります。

  イエスは無論、男の38年間の拗(す)ねた過去をご存知です。だが、少しも咎められません。お前はすねているぞ、と迫られません。問題点でなく、彼の可能性に目をとめられます。何と大きな愛でしょう。  (つづく)
 
  2008年3月2日
                                板橋大山教会     上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  (今日の写真は、ラインの古城に泊まった子ども達。彼らはここで何をしていたでしょう。)