深淵にある希望 (下)  詩編130篇1-8節


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  ルカ24章を見ると、エマオに下る2人の弟子たちに復活のイエスが現われ、彼らと歩みを共にされたと書かれています。その時、イエスは、モーセから始まり聖書全体にわたって、ご自身について書かれていることを説き明かされました。彼らは心燃える経験をします。その後、彼らはイエスに、「もう陽も傾いています。どうか私たちと一緒にお泊まり下さい」と言って、「無理に引き止めた」とあります。

  イエスを私たちの所に招かなければ、いつまでも見知らぬ人のままです(H.ナウエン)。イエスは魅力的な人です。聖書は人生の伴侶として適切なアドバイスをしてくれます。しかし、私たちが、「お泊まり下さい」「私の所にお出で下さい」と言わなければ入って来られません。キリストは、私たちの主体性を尊ばれるからです。人の自由を大事にされます。

  いくら心熱くしてくれるイエスであっても、お付合いではダメです。「私の所に来て下さい」と求める人の所に入って、私たちを創り変えて下さるのです。

  私は、イエスを自分の家に招いているだろうかと振り返ります。私の心の中には、真に困っていること、力不足を感じていること、長く解決できないでいること、突き破れない壁などがあります。そういう私の心の小部屋まで入って来て頂いているだろうかと。

  この間、礼拝後しばらくして、牧師館に戻ったら2階から声がするんです。2階には書斎とベッド・ルームがあります。ベッド・ルームと言うと粋ですが、9,700円の安物のベッドで寝ています。寝てしまえば90万円のベッドといささかも変わりません。

  2階から声がするものですから、上がりますと、妻が教会の2人の方を2階まで案内しているんですね。「どうして?」と思いました。ゴア元副大統領の「不都合な真実」という映画がありましたが、見られると「不都合な部屋」というのもあるのに、です。

  しかし、イエス様にまで、私の不都合な部屋を隠していちゃいけない。そこまで入って来て頂いて、私の真の実情を見て頂き、私を作り変えてもらうために、自由に歩き回って頂かなければならないんです。

  今、家のリフォームが盛んです。新築よりリフォームの方が安上がりですし、耐震性も強くなると言うので、大手の建築業界もそういう所に進出しています。

  私は、リフォームの営業をしているのではありません。イエスに入って来て頂いて、私の中を自由に歩き回っていただいて、どこをどうリフォームすべきか、真に困っている所を見ていただくのです。すると長年一人で悩んでいたものが、創り変えられていく。私がリフォームされる。リフォームどころか、復活のキリストご自身が私の大黒柱になって、支えて下さるようになるのです。

  それは、「一緒にお泊まり下さい」とお迎えすることから始まります。キリストが入って来てくださると、悲観は朝霧のように消えていくのです。

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  この詩編には何度も「望む」とか「待ち望む」という言葉が出てきます。

  望むとはどういうことでしょう。何が望むことでしょう。希望するということは、楽観主義に優るものです。希望するとは、私たちが願うものが実現するということを確信して生きることです。楽観主義と違って、これは強い意志です。今はまだ目に見えないが、「見張りが朝を待つにもまして」、夜明けを切に待つことです。そして朝は、時間が経てば必ず来ます。確信して待てばいいのです。

  パウロもローマ書8章24節以下で、「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょう。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」と書いています。忍耐して待つなら実現してくださるでしょう。

  不思議なのは、私たちが底知れない深淵にいる時にだけ、これを学ぶのです。前進する唯一の道は、ただ、あえてキリストを信頼することである時にだけ、この待ち望むことを学ぶのです。ですから、私たちがどんな絶望の淵に置かれても、キリストにあるなら、そこで「絶望の中でも希望がある」ことを学ぶことができるのです。深淵に希望があります。

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  希望は根拠を持たなければなりません。確かな基盤を持つことが必要です。

  この信仰者の希望の根拠は、神の愛であり「赦し」です。ですから、彼は7節以下では、他の人たちにも呼びかけて、「主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに」と語り、さらに「主は全ての罪から贖って下さる」と述べます。

  人は責任的でなければなりません。責任的な人間というのは頼もしいものです。人は、自分のしたことに責任を取らなければならない。責任を取ることを教えることが教育の基本である。本当にそうだと思います。

  しかし作家の高史明さんは、そのことだけを教えたから、息子は12歳で自殺したのでないかと書いています。そして、人間は色々な人や、動物からも命を頂いて生きているのだから、「感謝すること」を教えねばならなかったと語っています。私は、このことも正しいと思います。

  しかしそれ以上に、私たちは赦された存在であること、罪多き身であっても、生きることを神に赦されている。誰が自分を否定し、自分の良心が自分自身を否定しても、キリストは私たちを絶対的に愛し、赦しておられるのです。ですから、「主は全ての罪から贖って下さる」ことを教えてあげなければならない。

  でなければ、特に感受性の鋭い子どもは自分を追い詰めることがあります。神には赦しがある、自分は自分を赦せなくても神は君を赦しておられる。それが生きる根拠だと思います。感謝の前に、神に愛され、赦されていることを知るのが大事です。

  私たちの教会が明るいとよく言われますが、蛍光灯が沢山ついているからでしょうか。明るい人がいるからでしょうか。すぐ笑ったり、笑わしたりする人がいるからでしょうか。教会が明るいのは「赦し」があるからです。

  私はこんな教会の牧師をすることができて本当に感謝しています。明るさと和やかさがあって、皆さんといるとホッとします。心の渇きが癒されます。胸いっぱいさわやかな空気が吸える気がします。  (完)

  2008年2月24日
                                   板橋大山教会     上垣 勝

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  (今日の写真は、シャルトルの聖母子のステンドグラス。パリのノートルダム東大寺なら、シャルトルは薬師寺と言えるでしょう。)