深淵にある希望 (上)  詩編130篇1-8節


                                 (序)
 今日は先ほど交読した詩編130篇を中心にみ言葉を聞きたいと思います。

 これは、「都に上る歌」、都もうでの歌とあります。この信仰者は、エルサレム神殿に上る時の心情を歌ったのでしょう。彼は、なぜ神殿のあるエルサレムの都に上るのか、なぜ神を慕うのかを述べて、その心を如実に吐露しています。

                                 (1)
 先ず、「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取って下さい。嘆き祈る私の声に耳傾けて下さい」と、語ります。

 「深い淵の底」とあるのは、探り得ないほどの、底知れぬ深い淵のことです。光が届かない、救いが見えない程の淵です。

 イージス艦と衝突した漁船の父子は、一瞬の内に海に投げ出され、底知れぬ淵に沈んだに違いありません。まるでナタで割られたように、船が真っ二つになった写真を見て、その衝撃の強さに私たちは驚きました。

 イージス艦は何と7,700トン、漁船は何と僅か7トンです。一千倍の鋼鉄製の最新鋭の軍艦の前に、こっぱ微塵にされたわけです。国家権力の前でのちっぽけな個人の力を象徴するような出来事でした。漁師のこの青年は時々ホームレスの人たちへの支援をしていた優しい若者だったと言います。最高機密を持つイージス艦と言えども、非は非として、権力の闇が隠蔽されることなく解明して頂きたいと思います。

 漁船の親子は気の毒ですが、この信仰者は、救いの届かない深い淵にあります。手を伸ばしても這い上がれないし、声を張り上げても届かない所です。

 ある英訳聖書は、「私の絶望の淵から、あなたを呼びます」と訳しています。この信仰者は、助からない、絶望のドン底にあったのです

                                 (2)
 彼は3節で、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められたなら、誰が耐ええましょう」と言っていることから、この信仰者は「罪」によって、暗い、深い淵の底に転落してしまった人であると想像できます。

 信仰者もまた、罪に陥ることがあります。この世の力はもの凄くて、足をすくおうとする者が時にいます。しかし、この信仰者は、もう駄目だ、自分は罪に陥った、罪に染まった、手を汚してしまった、もう信仰者と言えない、これで信仰者と言えば偽善者だ。だから、もう罪に任せるしかない、とは思わなかったのです。

 彼は、そこで、主に「呼んだ」のです。「呼んだ」と言うより、「叫び求めた」と訳す方が適切です。

 「罪」とあるのは、前の訳では、「不義」となっていました。これは、曲がること、正しい道から反れて転落することです。その結果、彼は絶望のどん底に今あるのです。

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 しかし彼は、そこで叫んだのです。この、主に叫ぶと言うことが大切です。

 彼は、なぜ叫び得たのでしょう。

 「しかし、赦しが、あなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」とあるのが、答えです。前の訳は、「しかし、あなたには赦しがあるので、人に恐れ畏まれるでしょう」とありました。

 裁かれる筈の自分が赦される時、人は畏れを持ち、敬うでしょう。主なる神が、まことの神として畏れ敬われるのは、赦しの神だからです。赦すために、キリストは徹底的に私たちの罪を背負って十字架について下さった。赦す神は、ご自分を裁いてまでも私たちを赦して下さる方です。その恵みの高価さのゆえに、私たちは日曜日の礼拝に集まっています。

 この信仰者は赦しの神をどこで知ったのか分かりません。しかし、彼を深い絶望の淵から救い上げたのは、この神です。それで、あえてこの神の前に留まり、この神に声をあげ、叫んだのです。

 5節の、「私は、主に望みを置き、私の魂は望みを置き、み言葉を待ち望みます」という言葉から、彼が崖っぷちにありながら、「あえて」、主の前に留まっている姿が分かります。「望みを置き…望みを置き…待ち望みます」と繰り返し主に望みを置く言葉から、この「あえて」は明白です。

 この詩編は、絶望の中からの叫びですが、同時に主による希望への叫びです。苦難の時に主に信頼するのです。すると、閉ざされた道が開き始めます。希望の道が、神の方から開かれていきます。

 あらゆる形の悲観主義は、自分自身を苦しめています。葛藤の強い人というのは、悲観的に見なくていいのに、しばしば悲観的な要素だけを集めて自分自身を苦しめています。神が忘れられているのです。

 しかし私たちは、悲観的なこともある情況の中で、「神が、自分とその周りの人々を通して果たそうとしておられることを望み見て、あえて喜ぶのです。」(ブラザー・ロジェ)。「あえて」です。すると蜃気楼のように、いつの間にか悲観は溶けていくのです。  (つづく)

    2008年2月24日
                                    板橋大山教会     上垣 勝

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  (今日の写真は、シャルトルの日時計。)