解放のよろこび (下)  ルカ13章10-17節


                                  (4)
  神の安息、神において安らぎを持つとはどういうことでしょうか。

  先ずは、神の恵みを思い起こすことを意味します。私たちが働き、獲得したものでなく、別の光によって人生を見ることです。すなわち、神が、私たちの弱さの中でなし遂げられるものを見ることを意味します。

  明治6年にキリスト教の禁止令が解かれると、横浜にブラウン塾という英語塾が開かれ、ここから植村正久、本多庸一、井深梶之助、押川方義、雨森信成など、日本で最初の牧師たちが輩出しました。

  S.R.ブラウンという宣教師が始めた塾です。この人の母は極貧の家庭に生まれ、18歳頃までずっと他所の召使をしていました。それで無学文盲でした。しかし、19歳頃から向学心に燃え、字を覚えて、余暇を盗んで読書に励みましたが、貧困の身の上のために一銭の学資を出す余裕はありません。筆とインクを買う事も出来ず、鳥の羽根を拾って来てペンを作り、木の汁を搾ってインクの代用にし、夜は蝋燭(ろうそく)の僅かな残りを集めてそれを灯し、一生懸命に勉強したそうで、のちに有名な詩人になりました。前の賛美歌319番はこの婦人のものです。♭ 煩わしき世を、しばしのがれ、たそがれ静かに、ひとりいのらん ♭

 彼女は、大工と結婚しました。男子が生まれたら、将来宣教師として外国に行ってほしいと願ったのです。そして男の子が生まれました。これが、やがて横浜で英語塾を開き、日本最初の牧師たちを生み出したS.R.ブラウン宣教師でした。

  神は、貧しさの中で、弱さの中でそういう素晴らしい事をなさるのです。この宣教師の母は、貧しさにありながら別の光によって人生を見ていたのです。弱さの中でも小さな胸に大きな夢を育み、一つの国のキリスト教の基礎をなす人物たちを生み出すような、神の光です。

  だが、ブラウン宣教師はスイスイと宣教師になれたのではありません。中学を卒業してから一時小学校の教師をし、お金を貯めて大学に入り、卒業後盲唖学校教師を3年間し、それからやっと宣教師になる勉強が出来たのですが、学資不足から音楽の教授をして補いながら卒業したそうです。

  しかし、この幾多の苦労が横浜での牧師養成教育に大いに役立ったのです。

  更に、神に安らぎを持つということは、内面に受けた傷とそれを癒して下さる神を思うことです。それが、人間をより人間らしくし、私たちにも他の人にも、神は恵み深く、寛大であられることに目をとめさせ、私たちの真の独自性を発見するように導いてくれるのです。神による平和は、生きる喜びと力を与えてくれるのです。

  過去に失敗があっても、いいのです。過去は誰にも変えられません。だが神にある時、失敗はやがてプラスにさえ変えられるのです。私は殺人を犯した青年を知っています。彼の顔は今はまだ曇っていますし、目に険しさが残っています。しかし、彼も神の憐れみに触れるなら、その傷は痛さを持ちつつ、恵みに変えられると信じて接しています。そういう人であっても、この聖書の女性のように、キリストはその縄目から解放して下さるに違いありません。

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  腰の曲がったこの女性は、その労苦から解放されねばなりませんでした。では、私たちは、真の自分になるために、何から解放されなければならないのでしょうか。

  思い煩いから解き放たれることが必要な人もあるでしょうし、自分を縛るもの、因習や先入観や固定観念から解き放たれることの必要な人。劣等感から解き放たれること、人への恐れから自由にされることが必要な人、過去から解放されることが必要な人など、色々あろうかと思います。

  今日の社会状況を考えますと、余りにも「多くのものをしなければならない」という律法から解放されなければならないかも知れません。社会が私たちに求めるのは、「もっと多くのものを、もっと沢山のものを成しとげねばならない」という掟(おきて)です。多くの人はその「ねばならない」が頭にこびりついて、夜も熟睡できないでいます。その強迫観念から解放される必要があるのではないでしょうか。

  私たちの教会は2年前は17人程で礼拝をしていましたが、最近20人程の礼拝をしていて、今日は30人程が来られています。でも、教会の説教のブログを見る人は昨日だけでは49人でした。平日は7人程ですから一週間に50人程です。合計で100人程が説教を見に来ています。拝観料もなしにです!(失礼、いりません。大いにおいで下さい。)ですから、胸を張って下さい。礼拝出席者数と合わせるとこの教会は100数十人の礼拝を守っているってわけですよ。

  でも、「もっと増えればいい、もっともっと」と思わなくていいんです。教会に来て、イエス様によってホッとすればいいじゃあないですか。安息が与えられ、喜びと、力が与えられればいいんです。この教会には「赦し」があります。牧師だって赦されています。律法がありません。だから明るいんです。
 
  社会全体の風潮として、もっと優れたもの、もっと優秀なものをと要求される所もありますが、この風潮から社会全体が解き放たれなければならないでしょう。

  先日、東北大のことが新聞に出ていました。際立って優秀な教授には、給料を10万円上乗せする制度を作ったというのです。「持てる者は益々持ち、持たぬ者は益々持たぬ者になる。」現代社会の象徴のようなことが大学の先生たちの首をも、縛りつけているのです。

  私は、夢見ていることがあります。それは今すぐに、それがダメなら50年後、100年後にでも実現してもらいたいのは、競争社会というものが壊されることです。壊されなくても、大きく是正されなければならないと思います。

  この弱肉強食の風潮から、社会組織全体が解放され、もっと落ち着いた生活が可能にならなければならない。青年たちの苦労を思うと、本当に社会が改善されなければならないと思います。

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  私たちは、もっと多くの事をするようにではなく、もっと本質的なことを一生においてすることが大事です。金儲けのために生まれて来たわけではない。自分も幸福になり、他者も幸福な人生を、落ち着いて送るためです。

  今日の交読詩編63篇に、「私の魂は満ち足りました」とありました。魂が満ち足りること、それが私たちが今、最も必要としていることです。

  この腰の曲がった人は、そのままでアブラハムの娘であるとイエスは言われます。イエスは、私たちの存在そのものを祝福されるのです。「もっと」でなく、もう十分な人間なのです。何かを加える必要はない。満ちているのです。それを喜ぶことが必要なだけです。

  イエスはある時、「野の花を見なさい」と言われました、花は何も持っていません。花は、何も所有していません。神に造られた「自分である」だけです。自分であることで十分だとして、神に委ねて安んじています。委ね切っているから思い煩わないのです。委ね切って、精一杯、自分が置かれて所で咲いています。だから美しいのではないでしょうか。

  私たち人間も、イエスに委ね切っていく時、喜びが、そして解放が、自由が生まれるのです。  (完)

   2008年2月17日
                                   板橋大山教会  上垣 勝

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  (今日の写真は、傾斜の急な屋根でたわぶれる猫の親子。シャルトルで。」