家族からの独立 マタイ12章46-50節


                                 (1)
  イエス様が、多くの群衆に話しておられた時、「母と兄弟たちが、話したいことがあって家の外に立って」待っていました。すると気をきかしたある人が、イエスに、「ご覧なさい。母上とご兄弟たちが、お話したいと外に立っておられます」と、取り次いだのです。

  マルコ福音書では、母と兄弟が「人をやってイエスを呼ばせた」となっています。この人は、イエス様の説教を途中で遮って、耳打ちしたのでしょうか。途中で腰を折るなんて、大胆ですね。

  ある教会で、牧師が説教していると、奥さんが会堂の後ろの座席に座っていて、両手でバッテンしたり、手を振って合図することがあったそうです。「そんなことを言っちゃだめよ」とか知らせたかったのでしょうか。イエス様も、その牧師も話しにくかったと思います。

  マルコでは、この出来事の少し前に、身内の者たちが、イエスは気が変になっていると聞いて「取り押さえに来た」と書かれています。イエスの周りには、収税人や遊女など、社会からドロップ・アウトして、罪人とか与太者というレッテルを張られた者たちも集まっていたからです。

  家族がやって来たのは、それらの噂を聞いて、イエスの活動を止めさせるためだったと思われます。イエスは長男です。いつまでもフラフラしていないで、世間の人と同じように、家を継ぎ、家族を支えて欲しいという注文だったかも知れません。普通なら、これはもっともな注文です。

  私は長男ではありませんが、結婚式の茶話会の時に、義理の父から、「世間は甘いもんでは、おままへんで」と言われました。牧師なんていう得体の知れないことをして、いつまでもフラフラしていてはあきまへんで、というわけでしょう。

  ところがイエスは、「私の母とは誰か。私の兄弟とは誰か」と言われ、弟子たちの方を指して、「見なさい。ここに私の母、兄弟がいる。誰でも、私の天の父の御心を行なう人が、私の兄弟、姉妹、また母である」とおっしゃったと言うのです。

  この所から先ず思うのは、イエスの弟子には、12弟子だけでなく、興味あることですが女性たちもいたことが示唆されています。これは当時では非常に革新的で、ユニークなことでした。イエスの周りにはそういう新しい共同体が生まれていたのです。ただ、私たちの教会では、反対に男性の存在はまれで、男性はバザーの時だけでなく、いつも非常に希少価値のあるユニークな存在になっていますが…。

  もう一つ思うのは、皆さん、この日本語は、どこか高飛車な思いがしませんか。私は、イエスは怒りを含んで言われたのか、それともユーモアを含んで言われたのか、どっちかなと思います。私は、目を吊り上げて言われたのでなく、ゆったりした態度でユーモアを含みつつ、本当に大事なことをサラッと言われたのでないかと思います。そうでなければ、イエスは突然カッとなって切れやすい人ということになり、それでは、愛の人というイエスのイメージとそぐいません。

  ですから、イエスは、「その人にお答えになった」とありましたが、叱りつけるわけでなく、穏やかに、本当のことを「その人に」言われただけでないかと思うのです。

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  それにしても、これらのイエスの言葉から分かるのは、イエスは家族と少し距離を取っておられることです。あるいは、距離を取ることの大事さを示されたのです。

  12歳のイエスエルサレム神殿で学者たちと論じておられた時も、イエスを捜しに来た母と距離を取られましたし、カナの婚礼の時も母に対してそっけない物言いをされました。

  ただ、これらは家族の否定や家族との絶縁ではありません。次の13章で、この時に家族の来訪があったからでしょう。故郷に一時お帰りになったと報告されていて、家族との関係を深めておられるのが分ります。12歳のイエスにしても、母マリアにそっけない言葉を使っておられますが、その後ナザレに帰り、「両親にお仕えになった」と記されていて、しこりがあったとは思われません。

  ですから、やはりイエスはいきり立っておられるのでなく、サラッと本当のことを言われたのです。

  家族は、私たちがそこで生まれ、育まれ、成熟して大人になるまで過す場所です。私たちが育てられる苗床です。そこには遠慮のなさ、肉親の親しさ、甘え、血を分けた者の心のつながり、共通の経験があり、懐かしさがあります。しかし、同時に何がしかのトラブルもあったのであり、心の屈折も残っている、複雑な思い出の宝庫です。遠くから眺めるとキラキラ光っていますが、近づき過ぎると傷口も思い出されるのが、この宝庫です。

  世の中には、長く家族と口を利いたことがなく、宝庫とは呼べない、針のムシロのような記憶をもつ人や、家族から捨てられた人もあります。私が接している、教会外の人たちの中には、私の想像を越えた家庭環境で育った人たちもあります。

  いずれにしろ、私たちが心に使命や促しを感じた時、また仕事を見つけたときには、それを果たすために家族を離れます。特に青年たちは、ある時期には、しっかり親から独立しなければなりません。親離れし、独立しなければ、人格は育ちません。人間が一人の人格として育っていくには、厳しいともいえるこの狭い門を通らなくてはならないのです。親と同居していても、精神的に独立しなければ人格は十分育ちません。夫婦でも、独立せず、片方にべったりだと人格的に成熟しにくいです。

  イエスは、こういう一般的な意味でも、家族から距離を取られました。イエスの家族との距離は、冷たさでなく、人が通らなければならない関門です。しかし、それだけではありません。

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  イエスは、弟子たちを指して、「ここに私の母、兄弟がいる。誰でも、私の天の父の御心を行なう人が、私の兄弟、姉妹、また母である」と語られたのです。

  イエスは、血縁も、地縁も越えて、神の御心を行なうことに基づいた新しい人間関係を指し示されたのです。地上の家族を超える、神の御心という、命の最も深い根源に根ざす時に、成立する新しい家族です。

  私だってそういう所がありますが、世の中には、お手本にならない親、だらしない親、精神的に破産してしまった親というのがあります。本当に悪しき父、愚かな父であることをお詫び申し上げます…。そういう親を持つ人にとっては、「神だけが唯一の、本来の、真の父である」という事を知ることは、実に慰めでありまた大きな力になります。

  ある人が、「人間の親は、子どもを生むが、その子を新しく生まれ変わらせることが出来るとは限らない」と言っていますが、本当にそうです。こういう親にとっても、「神だけが唯一の、本来の、真の父である」という事は、実に深い慰めではないでしょうか。

  これら諸々のことを弟子に教えるために、「誰でも、私の天の父の御心を行なう人が、私の兄弟、姉妹、また母である」と、血縁共同体でなく、信仰共同体。神を仰ぎ、神の御心に生きる共同体を示されたのです。

  このような信仰の視点が与えられる時、肉の家族を超えて、もっと広い視野から、再び家族を、また人間というものを受け止め直すことができるのです。

  イエスにおいて、家族からの独立は、家族を捨てることではありません。家族への愛も思いやりも深められてやがて帰って来るためには、一旦独立する必要があります。独立すればするほど、今度は一人の人間として、家族を愛し、出会うのです。これは家族に対してばかりでなく、友人や同僚や、他の人に対してであっても同じです。

  「神だけが真の父、真の教師、真の指導者、真の養育係」であるからです。また、「本来は、このことを写し出すことが両親の仕事」(バルト)です。

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  イエスは家族を捨てたり、絶縁を命じたりするのでなく、「神の御心を行なう」という、喜びの泉を指し示されるのです。

  「天の父の御心を行なう者」は、私の兄弟、姉妹、母。ここに永遠に消えない喜びの泉が湧いています。この喜びの泉、慰めの泉から水をくみ出す者になる時、より高い、広い視野をもって人々を寛大に迎え、人々を寛大に受け止め、人々と寛大に関係することになるのです。人々の渇きを潤す者になるのです。

  他の人を裁きやすい私たちですが、世界を包む寛大な接し方、寛大な考え方、他の人を兄弟姉妹、母と考え、国境も民族も言葉も越え、神の家族として好意的に迎える、喜びの泉がここにあるからです。

  イエスは、肉の家族も神の家族の中に広く温かく包み込む、神の大きな御手を広げられたのです。

  私たちは、何度も何度も、「神の御心を行なう者」は、キリストの兄弟、姉妹、母という、この喜びの泉に戻って行くことが必要です。家族を持つ者にとっても、持たない者にとっても、イエスの家族の一員であるということは、何と誇らしいことでしょう。

  パウロが、「私は福音を恥としない。それは、ユダヤ人にもギリシャ人にも、信じる者すべてに、救いをもたらす神の力である」と語ったのは、このことです。その喜びの泉に絶えず帰って行き、そこから再び出発することが大事です。

  そうでなければ、いつの間にか私たちの根性は狭くなり、了見が小さくなって、仲間同士の集まりに固まります。

  肉親の家族が心地良いのは、身内への帰属意識です。しかしそこには限界があります。

  「天の父の御心を行なう者」は、私の兄弟、姉妹、母である。親よりも神に従う。そこから、親に対する正当な尊敬も生まれるのです。

  親から見れば、自分の子どもといえど、子どものうめきをすべては負い切れません。負おうとしても負い切れず、見守るしかないとか、祈るしかないとか、神に委ねるしかないという事が、人生には多くあります。

  私たちは、この世の家族への帰属意識よりも、もっと深いところでつながれた家族、つまり神の家族であることを認識するために、家族からしっかり独立し、生命の最も深い源に根ざして行きたいと思います。そのようにして、私たちを、生まれる前から呼んでおられる神の言葉によって、この世に希望を持ち、忍耐をもって働きかけていくことが出来るのです。

  教会は、多くの人たちに生命の最も深い源を、喜びの泉である主なる神を伝える使命を持っています。この喜びの深い泉を伝えるために、私たちが先ず、「天の父の御心」を求めていきましょう。いつも喜びの泉に与っていけるように、何回も何回も求め続けていきましょう。

  私たちは、既に完全になったというのではありません。後ろのものを忘れ、喜びの泉に向かって体を伸ばし、全身を向けつつ求め続けるのです。信仰者とは、完全になった者ではありません。何回も何回も、途中で止まっても、恐れる必要はありません。またそこから求め続けて行っていい者です。 (完)

 2008年2月10日
                                   板橋大山教会  上垣 勝


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  (今日の写真は、教会の人たちとのウオーキング。)