すべての人を一つに (下)  ヨハネ17章20-23節



                                 (4)
 神を信じ、信仰に生きるということは、何よりも信じる者たちの交わりと教会間の交わりを創り出す使命を持ちます。

 一致は、勢力拡張や気の合う仲間を増やすためではありません。また共同の敵のために共同戦線を張るためでもありません。単純に、「主において一つだ」という事実に生きるためです。「主において一つだ」という事実は、信仰や真理の探求、また奉仕や活動において最も大切な、第1の基準になる必要があります。

 教会に一致がある時、喜びが生まれます。平和と信頼が生まれます。

 エフェソの手紙でパウロは、「キリストは私たちの平和であって、二つのものを一つにし…」と書きました。

 キリストにおいて一致は既にあるのです。違いがあり、時には争いがあるにしても一致は既にあるのです。この一致を壊すものであってはなりません。一致を「実現する」ことに力を注ぐものでなければなりません。

 多様な者の一致のためにキリストは十字架について血を流されました。痛み、傷ついていかれました。キリストの十字架は、私たちの間に平和と和解をもたらすものです。

 この点で、今、教団の中に起こっている聖餐を巡る、異質な者を排除する考えは、大変残念なことです。

 その人たちは、「一致と再編」ということを言い出して、聖餐式の仕方で一致する者としない者を分けて、「再編」しようとするのです。要するに、自分たちと同意見の人はこちらに来なさい、違う人は向こうに行きなさいと、意見の違う人に「退任勧告」を出して教団から追い出そうとしています。

 これは、分裂を煽る論理であって、喜ばしい福音ではありません。建設でなく破壊です。平和を創り出すのでなく、戦争を創り出します。

 キリストは多様な者が一致するために十字架についておられるのです。色々な者たちの中に一致を創り、和解を創り、平和を創るために十字架につかれたのであって、排除するためにつかれたのではありません。イエスをキリストと告白し、信じるだけで十分です。

 ですから、聖餐をオープンにするか、クローズドにするかという仕方の問題は重要でなく、聖餐を与えられる主を仰ぐことが一番大事です。聖餐を頂くのは、一致のために十字架についておられる主を仰ぐためです。多様な者が和解するために肉を裂き、血を流される主を味わうためです。

 「みな一つの体となるために、洗礼を受け、みな一つの霊を飲ませてもらった」とコリント前書にあり、「体は一つ、霊は一つ、…主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」とエフェソ書にあります。

 ヨハネ福音書13章に、「私は新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、あなた方が私の弟子であることを、皆が知るようになる」とあります。

 神の栄光を表わすとは、私たちはキリストの弟子であり、互いに真に愛し合っていることを証しすることです。分裂を意図的に創っていては神の栄光を表わせません。

                                 (5)
 キリストにある一致は、既に、父なる神と子なるキリストと聖霊の神の交わりの中にあります。三位一体の神は、多様ですが、本質は一つです。父、子、御霊はそれぞれ多様な働きをされますが、一致しておられます。

 多様な者が一致していることにこそ美しさがあります。多様な者の一致が美しいのは、神の本質に根ざすからです。

 人類は、この三位一体の神の似姿を再び回復するように、招かれているのです。

 コリント前書には、「体は、一つの部分でなく、多くの部分からなっています」とあります。一つである体も、手や足や目や鼻や、多くの肢体からなっています。多様な者が一つの体に奉仕している、これが福音的な美しさです。ですから、多様な者が互いに受け入れ合い、補い合い、愛し合い、赦し合って、一つなるキリストに仕えていく。これが「キリストの体なる教会」の健康な姿です。排除していては、キリストの体になりません。

 多様な者がキリストにあって互いに認め合って、一致して、キリストの体として、世に対する証が進められて行けるのです。

                                 (6)
 イエスは、十字架の苦しみを受けて多様な者の中に一致を創り出していかれました。

 伝道は地の果てまで広がった。だが、一致は進まなかった。時代と共に分裂が広がった。…これでは、福音の中身が疑問視されるでしょう。

 イエスは、十字架の苦しみを受けて多様な者の中に一致を創り出していかれました。

 世界は分裂しています。この時代に、教会も分裂を作り出すのであれば、教会の存在価値は半減するでしょう。若い人たちは、そんな教会に愛想を尽かすでしょう。

 それでは聖書も、福音も排除されてしまいます。意見が違えば排除していいという考えは、必ずやがて聖餐問題だけでなくその他の問題にまで及び、その人たちの教会の信徒たちまで何らかの理由をもって排除することになるでしょう。その教会はイエス時代のユダヤ教に近くなるでしょう。

 和解の心が大事なのです。「一致と再編」をして、意見の違う人は出て行ってくれ、でなく、意見が違っても対話し、辛くても困難でも対話をし続ける。一致を探して諦めず、更に共に出会っていく。そういう愛のねばり強さ、寛容、忍耐深さが、キリストの愛であり、聖書が一貫して説く神の愛です。「汝の敵を愛せよ。」そのようなねばり強い愛を、イエスは十字架で示されたのです。

 そして最初に言いましたように、「イエス・キリストは、僅かな人々のためにではなく、全ての人々のために来られました。復活を通して、例外なく、全ての人間を一つにされたのです。そのような普遍性の心を、神は私たちの中に置かれたのです。」(ブラザー・ロジェ)

 狭い心でなく、普遍性の心を持ってなされるとき、世界に希望が生まれます。教会はそのような普遍性の心を持って人々に接していく時、世界の中で、永遠に古びない、「新しい言葉を語る」ことができます。

 「全ての人を一つに。」キリスト教会にそれができないで、どうして人類が一つになれるでしょうか。教会の一致は、人類の一致の試金石として注視されています。

 神は多様なものを生かされます。多様なものが生かされているところに、喜びと美しさがあります。多様性は、神の創造のみ業の不可欠な恵みであり、キリストの十字架は、異なったものを一つにする和解の恵みだということを覚えて行きましょう。 (完)

 2008年2月3日
                                   板橋大山教会  上垣 勝

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  (今日の写真は、アウシュヴィッツ収容所から少し離れた向かいに建つ「対話と黙想の家」の内部。食堂と青少年の家のような宿泊ルーム。食堂にはまだクリスマスの清楚な飾りつけがありました。)