すべての人を一つに (上)  ヨハネ17章20-23節



                                 (序)
 神の愛の豊かさを考える時、地球上の生物の多様性、その種類の多さを挙げることができます。地球上には今、1千万種から3億種ほどの生物が住んでいると言われます。もし、亜種も加えれば種の数はべらぼうなものになります。

 しかし地球にはもともと途方もなく多くの種がいたのだと言われていて、現在残っているのは僅か10%程とか、20%程度とかで、神はもとは驚くべき数の生物の種類をお造りになっていたということです。

 ここに神の気宇の大きさ、創造のみ業の豊かさがあります。その中には互いに天敵同士のものもいますが、天敵を作ることで自然の生態系のバランスをとられました。多様性というのは、神の創造の際の不可欠な欠かせない恵みと言えるでしょう。

                                 (1)
 神の気宇の大きさは、人間の上にも現わされました。テトス2章には、「実に、全ての人々に救いをもたらす神の恵みが現われました」とあります。全ての人にであって、一部の人にではありません。キリストが現われたのは、僅かな人のためでなく、全人類のためです。主は一部の人を排除するために、人類を再編するために来られたのではありません。

 ひがみっぽい人とか嫉妬深い人は来ちゃあダメって言われません。私のような劣った変な人間でも受け入れて下さったのですから、神の寛大さはべらぼうに大きいですよ。そうだと思いません?

 ヨハネ福音書1章にも、「全ての人を照らすまことの光があって、世に来た」とあります。神は多様な人間を分断せず、そのままに愛し光を与えられるのです。

                                 (2)
 お読みいただいた箇所には、イエスの祈りがありました。17章は大祭司イエスの祈りと言われる所で、世界のための、十字架にかかる直前のイエスのとりなしの祈りが記されています。ですから遺言のような祈りですが、ひと言で言えば、神とキリストの栄光が地上に現われるように、弟子たちが一つになれますようにとの内容です。

 「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、全ての人を一つにしてください。…そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになります」と、ありました。その後も、「私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と続けられています。

 弟子たちの一致の源は、キリストと神との一致にあり、弟子たちの間に一致が育つことによって伝道が前進し、この世は、神とキリストを正しく認識するようになると言われるのです。

 マルコ福音書16章で復活のイエスは、「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と語られた後、信じる者に伴う徴として、「新しい言葉を語る」ことが言われています。

 「新しい」という言葉は、ギリシャ語でカイノス(新しい)と言います。カイノスとは質的に新しい、永遠に新しい、決して古びないという意味です。「新しい言葉」とは、この世のものとは質的に違う言葉です。それは信じる者を義とし、罪の赦しを宣言し、心に平和を与え、永遠に新しい一致を創りだすものです。また、十字架によって癒された者は、人々を癒し、社会を癒す新しい一致の言葉を語ります。

 ですから、多様な弟子たちの一致は、本来、真に新しい言葉なのです。この世にショックを与えるような、新しい言葉です。教会はそういう質的に新しい「一致」の言葉を持っているのです。

                                 (3)
 イエスは、世が信じるようになるために、弟子たちを世に派遣されました。ですから、この派遣と弟子たちの一致は分ち難く結びついています。派遣と一致は切り離すことはできないし、切り離してはならないのです。

 キリスト者は、2つの事に誠実でなければなりません。派遣と一致です。派遣とは伝道のことですから、伝道と一致です。これは矛盾するものでなく、同じコインの裏表です。

 キリスト者たちの一致が進めば進むほど、キリスト教会が行なう証の中身が作られて行きます。私たちは、一致をますます広げるように召されているのです。キリストの時代から年月が経つに連れて、世界に教会が増えて地の果てまで広がると共に、一致が現実となって実現して行くように召されているのです。  (つづく)

 2008年2月3日
                                   板橋大山教会  上垣 勝

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  (今日の写真は、アウシュヴィッツ収容所から100mほど離れた向かいに建つ「対話と黙想の家」。フロントで、夏には世界各国から青年たちが訪れると聞きました。カトリック教会は、収容所を目の前にしてホロコーストを考えるためのセンターを作っていることに教会の姿勢を思い、新鮮な驚きを感じました。もう一枚は収容所の前で。)