死んだ石が生きた石に (下)  Ⅰペトロ2章1-10節


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 次に、3-4節に、「あなた方は、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるように…」とありました。

 主のもとに来なさい。もう一歩近づきなさいと勧めます。主のもとに、どんなに近づいても近づき過ぎることはありません。また、恵み深い方であることを味わい過ぎるということも決してありません。

 キリストの所に行き、キリストの恵みに与って行く、すると「生きた石」になるのです。たとえこれまでは死んだような石であっても、この方に触れると生きた石になります。

 「悪意、偽り、ねたみ、嫉妬、悪口。」その類いの罪の上に神は世界を建てられません。その足場は腐っています。一時は確かなようでも、早晩必ず崩れます。神から捨てられた石は用をなしません。

 囲碁の世界では、こういう石は「死に石」と言われます。碁盤の上では場所を取って存在していますが、ちっとも生きていません。生きていないどころか、石の色は自分のであっても、最後は相手に取られてしまう死んだ石です。

 繰り返しますが、世で華々しく活動していても、また、堅実そうに外見は見えても、捨てられた石、死に石というのがあるのです。あだ花に似て実を結びません。

 1月7日、Aさんのご主人が召されたと聞いて、夜、教会の人たちが駆けつけました。あいにく連絡がつかない方や、仕事がある方は来れませんでしたが、多くの人が来られました。

 私は、若い方が多く集まったので驚きました。大教会では、洗礼を受けて間もない高齢の方が亡くなっても若い方は来ません。他人事です。私たちの教会は違いました。メールを受け取って空港から駆けつけた方。会社から電車で戻って赤ちゃんを保育園に迎え、また駅に戻り、電車に乗って来た方。勤めからの帰りに寄られた方など、色々でした。

 夜遅く、遅れてご主人とお花を持って来た方や。手紙を届けられた方。メールを送って下さった方。後にお家を訪ねた方などもありました。

 一人ひとりが奥さんを励まそうと一生懸命でした。若い人も「生きた石」になって励まそうとしていたのです。

 今日は、礼拝後にお宅を訪ねて祈って励まそうとしています。これは先日、朝の祈りの中で突然示されたことです。誰しも思いは沢山ありますが、言葉に出すと思いが十分伝わらないもどかしさを覚えています。キリストに堅く立つ時、乗り越えることをお伝えしたいからです。

 「生きた石」には色々あります。

 私たちの教会に、毎月献金をしてくださる方があります。他教会の方です。この方は年金生活者です。その上、大変悪い持病をお持ちです。特別裕福な方ではありません。だが必ず毎月1万円の献金を送って来られます。遅れることはありません。1万円は誰しも惜しい金額です。だが惜しむことなく、自分の教会でもないのに、この教会のいわば「生きた石」となって教会を支えてくださっているのです。

 キリストの所に来るなら、生きた石として用いられて霊的な家を造り上げるというのですが、この方もこの教会を造り上げて下さる一人になっておられるのです。本当に貴い信仰です。

 私たちの教会は、こういう見えない所で支えて下さっている方があることを、感謝をもって覚えて行きたいと思います。

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 キリストのもとに来るとき「生きた石」とされるということには、もう一面があります。

 キリストのもとに来る人は、キリストの「生きた石」、すなわちキリストを表わす「生きた石」とされるのです。

 すなわち、皆さんはキリストの体を表わしておられるのです。「エエッ!」自分がキリストの体だって、と思う方もあろうかと思います。しかし、そうなのです。

 皆さんは、見えるキリストの体です。教会の中においてだけ、キリストの体、その肢体ではありません。恐れ多いことですが、キリストの恵みに与っている人たちは、世においてもキリストを映し出しているのです。キリストの「生きた石」として世に派遣されて、キリストの香りを放っているのです。

 ですから、一人ひとりのキリスト者が、自分の為だけに生きるのでなく、キリストがされたように互いに愛し合うことによって、キリストを指し示すことが大事です。また、人々に開かれた愛の心を持って生きることによって、更に明らかにキリストを指し示すことになるでしょう。

 アメリカに「聖なる杯の運動」というのがあります。ハープ奏者で歌手のテレーズという女性が始めました。2、3人でチームを組んで、病院や老人ホーム、ホスピスや一般家庭に行って、ハープ伴奏で歌いながら臨終にある人たちを看取るのです。彼らは「カリス・ワーカー」と呼ばれています。神の恵みを届ける奉仕者です。

 音楽の才能はお金儲けだけの道具なのか、それとも隣人を愛するための道具なのか。素晴らしい才能に恵まれても、人間という石は、生きた石にも死んだ石にもなります。自分ががめつく脚光を浴びるための才能か、それとも他者を愛するために使われる才能か。考えさせられます。

 ヨハネの第1の手紙は、「神は愛です。愛に留まる人は、神のうちに留まり、神もその人の内に留まってくださいます」と語っています。そして、このペトロの手紙の4章は、「何よりも先ず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」とあります。

 そして、今日読んで頂いた最後には、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなた方が広く伝えるためなのです」とありました。

 私たちが、キリストによって「生きた石」とされたのは、このキリストの大きな恵みを多くの人に証しするためであります。  (完)

 2008年1月27日
                                   板橋大山教会  上垣 勝

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  (今日の写真は、「労働は自由にする」と書かれたアウシュヴィッツ収容所の入り口。)