死んだ石が生きた石に (上)  Ⅰペトロ2章1-10節


                                 (序)
 ペトロの手紙は1世紀末の迫害の時代に書かれました。4章には「身に降りかかる火のような試練」について書かれますし、5章には「悪魔が、ほえたける獅子のように誰かを食い尽くそうと探し回っている」とも書かれています。

 この手紙を受け取った人たちは、迫害によって各地に散らされ、今は仮住まいをしている人々です。彼らは少数者として、その地で信仰の火を灯して生きています。

 しかし、追い詰められ、苦しめられて、被害者意識で生きているのでなく、「言葉で言い表せない素晴らしい喜びに満ち溢れて」いたようです。

 私たちの教会を見て逃げて行く人があるんです。安っぽい木造の教会には近寄らないようにしようとか…。教会とは何かを知らない人でしょう、詳しく申しませんが、先日そんな事がありました。しかしここに集まる人たちが、「言葉で言い表せない喜びに満ち溢れて」生き生きと生きていれば、それでもう十分です。

 教会の外観は問題ではありません。パイプオルガンがあるからと言って本当の教会とは限りません。オルガンでなく、福音が高らかに鳴り響いていればいいのです。喜びを持って福音に生かされている人があれば十分です。

 昔、ある説教の勉強会に出たことがあります。町屋教会のとは別です。驚いたのは、出席者全体が詰らなさそうな顔で座っていました。初めて出席しても、嬉しそうな顔で迎えてもくれません。招かれざる客のような態度です。私は、説教の勉強会がこんなつまらない顔でいいのかと思いました。その説教で満たされた、「言葉で言い表せない喜びに溢れている」と言うのでなければ、何だろうと思いました。

                                 (1)
 今日の聖書に、「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」とありました。

 「悪意」以下の言葉を詳しく説明する必要はありません。先週、コンピューター・ウイルスを作った大阪の大学院生が捕まりました。ウイルスにかかると、パソコンに保存している文書が書き換えられたり、データを盗まれる被害にあいます。まさに「悪意」ある犯罪です。

 「ねたみ」とあるのは「恨み」とも「そねみ」とも訳せます。人の長所を恨んで妬むことでしょう。

 「悪口」というのは、人を誹謗することですが、元の意味は「下に向かって語る」というギリシャ語です。

 「亭主関白の会」という10人ほどの男たちの会をテレビで紹介していました。その標語は、「勝たない。勝てない。勝とうとしない」というのだそうです。どういう事かというと、「妻に勝とうとしない」「妻には勝てない」「妻には勝たない」という意味だそうです。家庭円満な亭主関白の秘訣ということでしょうか。

 勝とうと思うから、向こうも牙をむき出して向かってきます。第一、勝てるものじゃない、でしょ?そういう悟りでしょうね。妻に対しては戦争放棄。今の憲法はやっぱり大切です。改憲しちゃあならないのです。

                                 (2)
 冗談はそれまでにして、今日の聖書は、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」などの古い生き方を「みな捨て去って」と言います。

 だが、捨て去るだけでは不十分です。捨て去った後、新しい力が盛られてこそ、新しい命に満ちたものになります。

 そこで、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです…」と勧めるのです。

 キリストの恵みは、「混じりけのない乳」のようなものです。

 母乳だけで赤ちゃんはすくすく育って、最初の3ヵ月で約2倍の6キロ前後の体重になります。一生のうちで、一番成長が著しい時期です。乳がどんなに豊かな滋養があるか明らかです。

 今では牛乳と言っても余り有り難く思いません。だが私が小学生のとき、何か重い病気に罹りましたが、母は近くの農家から卵と搾り立ての牛乳を分けてもらって飲ましてくれました。何とか病気を治してあげたい一心だったのを覚えています。それは確かに良く効いたようで、間もなく元気になりました。

 キリストの恵みは、心の滋養、魂の糧になります。心に平和が与えられ、生きる勇気や喜びを与えられます。

 キリストは、なぜ恵み深い方なのでしょうか。結論を先に言えば、「私たちに代わって、裁かれ給うた審判者」であるからです。

 人は、自分自身の審判者であろうとし、また自分の隣人の審判者であろうとします。神を押しのけて、自分が主になることができ、審判者になれると考えています。罪は、私たちにおいてそのような姿をしています。神なしで生きるのです。

 すなわち、自分は善悪をわきまえており、自分に教えることが出来ると考え、物の分かっている存在、主であると思っている。「見える」と言い張っているのです。

 それで自分には義を宣告し、人には多かれ少なかれ注文をつけ、「此奴はここが短い、彼奴はここが長い」と審判し、罪を宣告する。

 だが、主キリストこそまことの審判者であり、最後的、究極的に審判を下す方です。 (つづく)

 2008年1月27日
                                   板橋大山教会  上垣 勝

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  (今日の写真は、まさに地の果て。ヨーロッパのレールはすべてここ、アウシュヴィッツ(ビルケナウ収容所)で終わりました。1m手前でレールが終わっています。マイナス15度以下になるアウシュヴィッツの一番寒い季節に、ここで人生の最後を迎えた彼らを思って訪ねました。)