あなたは世の光 (下)  マタイ5章13~16節


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 イエス様は更に、世の光ということを、2つのイメージを話されました。山の上にある町と家の中のランプです。

 このイメージに共通していることは、山の上の光も家の中の光も、それが持っている光を自然なままに灯していると言うことです。

 イエスが言われることは、神が私たちに与えておられるものを、見せびらかしたり誇示するようにということではありません。見てくれとばかりに、陳列することではありません。

 私は最近、NHKを見る気がしないんです。NHKは、自己宣伝が多くなっているのですね。予告の宣伝番組が多くて、PRですから当然ですが、良い事ばかりしか言いません。見せびらかしているんです。それが鼻につきます。NHK生え抜きでなく、外の経済界から会長を迎えてからでしょうかね。

 イエスは、「あなたがたは世の光である。」それを見せびらかせと、言われたのではありません。そうでなくて、神様から与えられるものを、単に隠さないようにということです。神が、私たちの中に置かれた光を隠さないで、そのまま輝かすようにということです。

 信仰というのは、自然体で神様から与えられたものを他の人と分かち合っていると、私たち自身の信仰が命を持って生き続けますし、成長して行くのです。そのことは、クリスマスの祝会で3人の方のお話を聞いた時、そういう思いをしたのではないでしょうか。

 「世の光」というのは、2千年前ですから自然なランプの光のことです。夜にそれが部屋に灯され、山の上の町からその微(かす)かな光がチラチラするのです。煌々(こうこう)と輝く電灯の光ではありません。電灯の光は明る過ぎて見えなくていい所まで見えてしまいます。小皺とか、白髪とか…。ランプは必要な所だけ照らしてくれます。「世の光」も必要な所、必要な人を照らせばいいのです。それ以上は見せることになりがちです。

 「他と人と分かち合う」という事を言いましたが、それは、イエス様ご自身が、私たちと分かち合われ、「神と等しい者であることを固守せず、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」からです。イエス様ご自身が、私たちの光であろうとされたから、私たちも受けたその光を隠そうとしないのです。それは、赦された光だから、赦しの光になります。愛の光だから、弱く小さいけれど愛の光になるのです。

 私たちはキリスト者になっても特別なものを持つわけではありません。背伸びをする必要もありません。また特別なものを要求されもしません。単純に、神様から与えられたものを喜び、感謝して表わすことです。それ以外ではありません。

 「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とあります。立派な行いをしようとして偽善者にならないことが大事です。

 ここでイエスが言っておられることは、私たちが特別立派なことをしようというのでなく、神を真実に仰ごうとする一人の人間として、人々の傍らに立ち続けることです。重荷を負っている人があるなら、その人の傍らに立ち続けること、友であり続けることです。

 そうすれば、目には見えないけれども、もう一人の不思議な方が私たちの近くにおられること、私たちを励ましている方があるのを、その人たちが感じるであろう、ということです。

 イエスは私たちに、「あなたがたは世の光である」と言われます。私たちは、私たちの光であるイエス・キリストとの個人的な交わりを絶やさないようにするのが大事です。神との、キリストとの交わりという、内面的な生活がなければ、この光は薄くなり、その塩味もかすれてしまうからです。

 そしてこの一年、「あなたは地の塩。世の光」という言葉を、忘れずに生きていきましょう。  (完)

2008年1月6日
                          板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、ケンブリッジ、キングス・カレッジのバックスの入り口からケム川までの道に咲くシクラメン。数百株が咲き乱れる並木道を通るのは贅沢な楽しみです。)