あなたは世の光 (上)  マタイ5章13~16節



 今、私たちは、「あなたがたは地の塩である、世の光である」という言葉を聞きました。この一年、私たちはどんな所に置かれるか誰も分かりませんが、それでもどこにあっても、キリストは私たちを愛し、私たちを豊かに生かそうとして、「あなたは地の塩である、世の光である」と言われることに心を留めましょう。

                                 (1)
 今日の箇所は、山上の説教と言われる所です。イエスの周りに集まったのは、12弟子達だけではありません。実に多様な群衆でした。4章の終りを見ると、この群衆には多くの病人や障害や悩みを持つ人も含まれていました。

 イエスは彼らを見ながら、「あなたがたは地の塩である。世の光である」と言われたのです。

 これを先ず最初に聞いた時、群衆の中に、一瞬驚きが走ったことでしょう。重荷を負って沈み込んで生きている自分たちが、どうして地の塩であり、世の光と言われるのか、目を上げてイエスの顔をまじまじと見る者もあったかも知れません。

 将来、あなたがたはそういう風になると言われたのでなく、今そのままで自分たちが地の光である、世の光であると言われたからです。

 ここには、イエスに魅かれて来た者やイエスから癒してもらおうとやって来た者だけでなく、興味本位で来た人、お手並み拝見という思いで来ている者、更にイエスの弱みを探すために来た者など、まさに様々でした。

 しかしイエスは、そういう一人ひとりの思惑を越えて、「あなたがたは地の塩である。世の光である」とおっしゃったのです。イエスは、人間の深い所にあるものをご覧になっています。本人は気づいてもいませんが、イエスは私たちの感覚や理性よりもっと深いところにある、人の本質をご覧になります。その目に見えない、本人の意識からも隠れた深いものを見て、「あなたがたは地の塩である。世の光である」と言われたのです。それは、神の創造の下にある人本来の姿であると言えるでしょう。

 そして、弟子達や群衆たちだけでなく、今日、新年最初の日曜日に教会に集まって来た私たちにも、イエスは、「あなたがたも地の塩である。世の光である」と、言われているのです。

                                 (2)
 私たちが日常使う精製された塩は、塩気を失うことはありません。しかし、天然の塩は放って置くと塩味を失うことがあります。効き目がなくなれば、イエス様の言葉にあるように何の役にも立たなくなります。

 人間も、天然の塩に似たところがあると言われるのです。放っておくと塩味が抜けて役に立たなくなると言うわけです。

 ただ私たちの経験では、その反対のことも多くありまして、放っておくと一層辛(から)く、辛辣(しんらつ)になる人もあるようですし、塩っ気というより、年と共に愚痴っ気が混じったり、嫌味も入る人もあるようです。エッ、毒っ気もですって。

 イエスは、人も味付けされなければならないと言われます。味付けという言葉は、英語でシーズンといいます。春夏秋冬の四季のシーズンです。一年間、同じ季節であればうんざりするでしょうが、私たちは四季があることによって味付けされているんです。私たちの生活にも何の変化もなかったら、実に単調で味のない人生になることでしょう。味つけのために、私たちは小説を読んだり、映画を見たり、旅行に出かけたりします。それはそれでいいことです。

 しかし、そのように生活に味付けしながらも、その味をつけている筈の生活自体が、本質的な味を欠いているということがないでしょうか。まだ、人としての本当の味がついていないという事です。

 人間は、神を求めてキリストに耳傾ける存在である時に、不思議なんですが、会う人に大切な味を与える者になるのです。遊びや添え物でなく、人生の本質的なものを求めてキリストに行く。すると、本質的なものに向かっていること自体が、社会にあって塩味になるのです。そういう人が存在するということが地の塩になります。私たちの個人的な性質によるのでなく、神を求めていること自体が、この世に味をつけることになるのです。

 「地上に宝を積むな。天に宝を積みなさい」と、イエスはおっしゃいました。「先ず、神の国と神の義とを求めなさい」ともおっしゃいました。私たち自身が、先ず大切なものによって塩味をつけられて生きる。そうすれば、自然と地の塩になるということでしょう。

 昨春からヘンリー・ナウエンという人の「最後の日記」というのを毎日少しずつ読んで、今も読んでいます。以前申しましたが、この人は、ハーバード大学で教えていましたが、54歳の時に辞めてカナダのデイブレークという村にあるラルシュという知的障害者の施設で働くことになった人で、65歳になった10年ほど前に急性の病気でなくなりました。私も65歳です。兄も65歳で癌で亡くなりました。今、私は徐行運転をしています。チェーンを巻くべき所でチェーを巻かないと、八甲田のバス転落事故のようなことが起りますからね。

 その本の中に、同じ施設の木工所で働いているロレンツォという人のことが出てきます。ロレンツォは、カリフォルニアでやはり研究生活をしていましたが、そこを辞めてこの施設で働き始めた人です。

 彼は、イタリアの貴族の生まれで、ローマの上流社会で教育を受けました。彼は、どこか何か、人を魅きつけるところがあるのだそうです。なぜ国を離れカナダの知的障害者と質素な生活をするようになったかと言いますと、彼は口蓋裂いわゆる三口と先天的な形成異常を持っていて、これまで数え切れないほどの入院と手術を経験して来たのだそうです。

 そして、この障害が上流社会で人の注目を浴びて暮らす人々の世界から、社会の片隅で目立たずに暮らす人々の世界へ移ることを決意させたのだそうです。しかし、これは実社会から逃げることでなく、彼の決断はもっと深い所から発し、深い信仰と愛に基いてなされたもので、その結果実に実り多いものになったと、ヘンリー・ナウエンさんは書いていました。

 神様が、上流社会からいわば世の底辺に住む人たちの所に移り住むように、その地に味をつけるように特別に選ばれていたのかも知れないと、私は思いました。神を求め、キリストの愛に魅かれ、本質的なことに向かっている、それが地の塩になるのです。
  (つづく)

  2008年1月6日
                              板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ちっちゃい大山教会の4人の洗礼式。おまけは、ワインの里ブルーゴーニュのブドウ畑。小一時間乗り合いバスに揺られてやっとワインの里を抜けました。ここで飲むワインは格別な味わい。)