安らかに一年を閉じる (下)  詩編16篇



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 ある注解者は、この詩編は、実際はダビデの作でなく、レビ族の一人の詩と見ています。もしレビ族なら、彼はどこにも安住の土地を持ったない者です。というのは、彼らは神に仕える者であり、神の礼拝のために献げられた氏族でしたから、カナンの地には一歩の土地も与えられなかったのです。(民数記18章参照。但し35章には後の変更が書かれている。)

 土地を少しも持たないということは、不安な、心休まらない生活です。だが、この信仰者は全く逆のことを発見したのです。

 「私は主をたたえます。主は、私の思いを励まし、私の心を夜ごと諭してくださいます。」

 「諭してくださいます」というのですから、この発見はまだ進行中です。恐らく更に深い真理の発見へと夜毎に導かれて行くことを予想させます。

 この信仰者は、以前は、「避けどころ」も「幸い」もなかったのではないでしょうか。何の嗣業もなく、心の動揺はたえずあり、喜びが欠け、身体の安らぎもない状態です。魂は黄泉に下るような状態にあったかも知れません。

 ところが、神は夜毎に諭して下さったのです。「夜」はこの信仰者の人生の夜でもあるでしょう。絶望の叫びしか出てこない夜です。しかし、夜毎、主が満たして下さっていることを知ったのです。

 そして今や、彼は、明確な確信をつかみます。彼の嗣業、彼の持つ財産は神であるということです。一寸の土地も持たないが、神という大地に根を下ろして生きているという確信です。神こそ人間の究極の嗣業、財産であるとの確信です。

 この信仰もすごいと思います。本当に秀でた信仰です。

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 しかし、果たしてその様なことは信頼できるものなのでしょうか。確かさがあるのでしょうか。屁の突っぱりにもならないのではないでしょうか。

 多分屁の突っぱりにもならないでしょう。だが、彼にはなるのです。

 8、9節で彼は、「主は右にいまし、私は揺らぐことはありません。私の心は喜び、魂は躍ります。体は安心して憩います」と歌います。神が自分の右にいて、強力に支えてくださり、心も体も魂も、安心して憩うことができる。委ねうる方がおられて安らかに憩うことが可能であると言うのです。

 私たちは3つのケアが必要です。体のケア、心のケア、そして魂のケアです。体のケアだけではいけません。猿でも毛のケアとかスキン・ケアはしています。体と心のケアだけでも不十分です。スピルチュアルな魂のケア、生死にかかわり、神と永遠の命にかかわるケアが必要です。(ただ最近はスピルチュアル・ケアと言っても、たんまりお金を巻き上げる宗教もあるので、安心できません。今年は最後まで「偽」という漢字が付きまといます。)

 しかし、神にあって、私たちの心が喜び、魂が躍り、からだが安心して憩えるのは、世界と人生の本質に心も魂も的中しているからです。すなわち、不安や試練が襲う嘆きの谷を通る時にも、そこに神との確かな交わりを、魂への神のケアを見出しているからです。神のケアがあるときには、平和が与えられ、心がシンプルに単純になるのです。

 ある人が、「単純さとは、それぞれの人の心の核、その人の魂があるところに完全に身を任せることだ」(H.ナウエン)と言っていますが、この信仰者は己の唯一の財産である神に完全に身を任せて、単純さと安らかな生活を与えられたのです。

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 この詩編は、永遠の命について語っている旧約聖書でまれな箇所です。彼は旧約の伝統に基いてではなく、これまで見て来ましたように、「主は、私の心を励まし、夜毎、諭し、私の右にいます。私は揺らぐことはない。心は喜び、魂は躍り、体は安心して憩います」とあるような、神との親密さからこのような結論を引き出したのです。そして、「あなたは、私の魂を黄泉に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます」と歌います。

 神が命であり、神が私を友となさるのなら、私が死ぬ時も、神は決して捨てられることはないとの信頼です。

 これは死後の命についての憶測ではありません。墓穴をも越えて,「命の道」を教えて下さる神への信頼です。その信頼が、「私の心は喜び、魂は躍ります。体は安心して憩います」という言葉を生んだのです。

 彼がここでつかんだ「命の道」は、先に述べた人生の細い脇道にさえ実在する真理の大通りと同じです。嘆きの谷を通る時も、そこを泉とする生きる力です。

 神は、どのような状況下に私たちが置かれても、「命の道」を教えて下さるのです。私をまことに生かし、用い、活用し、何よりもその命を力強く喜び、私の人生を祝福してくださるのです。

 主なる神を信じて生きるとは、命の道を教えられながら生きることです。命の道に沿って生きる時、私たちの行うこと、話すこと、為すことはたとえ小さくても、一つ一つ神のみ前に歴史的事実として残って行きます。また、私たちはたとえ嘆きの多い荒れ野のような場所にいても、小さな泉として、人々の渇きを潤す小さな泉として用いられていくのです。

 もう一度申します。この信仰者は、あるいはレビ族の一人です。何の土地もありません。しかし、私の財産は神であると発見しました。すると動揺はなくなり、心は喜び、魂は躍り、からだは休みを与えられ安らかに憩ったのです。魂は真のスピリチュアル・ケアに与ったのです。

 ここに、誰にも与えられた、安らかに一年を閉じる道があるのではないでしょうか。これは復活のキリストが弟子たちに、「平和があるように」と言って与えられた平和に通じる安らかさです。

  2007年12月30日
                                板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、The Last Tokyo & The Last Sunshin in 2007. From Sunshine60 )