安らかに一年を閉じる (上)  詩編16篇



                                 (序)
 今日は「安らかに一年を閉じる」という題です。年末になって、安らかどころではなくなった方々もおられますが、それでもその方々も安らかに、いやその方々こそ安らかに一年を締めくくって頂きたいと願って、切なる祈りを持ってここに立っています。

                                 (1)
 この詩はダビデの作とありますが、何才頃の作でしょうか。イスラエルの王になる以前の、ゴリアテと闘った貧しい羊飼いのダビデでしょうか。詩の内容からは、まだ功をなし名を遂げるより前のダビデの姿のように窺えます。

 「神よ、守って下さい。あなたを避けどころとする私を。主に申します。『あなたは私の主。あなたのほかに私の幸いはありません。』」

 貧しい彼にとって、幸いは主なる神以外にありませんでした。彼は、昼は野原で羊たちと過ごし、夜は、季節によっては星空の下で羊たちの番をして、夜空一面に満ちる星を仰いで、全世界、全宇宙を統べ治められる神を礼拝していたことでしょう。

 ここで、「神よ、守ってください」と言っていますが、神を「避けどころ」とすると言うのですから、そのように言う必要はないのではないでしょうか。しかし、こちらが「神を避けどころ」としても、主が実際に働いて「守って」下さらなければ、不安は後から後から湧いて来るのが人生です。それが生身の人間の現実だからでしょう。

 ダビデは4節で、「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。私は血を注ぐ彼らの祭りを行なわず、彼らの神の名を唇にのぼらせません」と語ります。

 彼は、ほかの神の後を追う者たちを呪っているのでしょうか。そうではありません。彼らが実際にしている事柄をここで述べたのです。それは、彼らは神々による繁栄を約束しましたが、その神々を祀るために人の血が流され、供え物に捧げたという恐ろしい事実です。神々の関心を惹きつけたい一心に、かくもおぞましい人身御供がなされました。それを私は行なわないというのです。

 この間は、イラクから役目を終えて帰って来た自衛隊員の中に16人もの自殺者が出ていることをお話いたしました。今、本当に自殺者が増えています。これは、国のあり方が問われる問題です。犠牲者を出してまで、繁栄を追い求める企業や国があるとするなら、まだこの古代の偶像礼拝の域を出ていないと言えるでしょう。学校の先生たちに多くのストレスがかかって、病になる人が増えています。犠牲者を出してまで、日の丸を掲揚し、君が代を歌うことを強制する。そこにも繁栄を追求する偶像礼拝的な動きがあるのではないでしょうか。

 ダビデは問題を見抜いて、その様な神々の後を追う者には、「苦しみが加わる」と断言するのです。3000年前の信仰者ですが、実に現実社会を見抜いています。

 そして彼は、「主は、私に与えられた分、私の杯。主は、私の運命を支える方。…」と述べます。

 主は、自分にとって全てであり、私を祝福してくださる祝福の杯である。私の人生の幸運の時にも不運の時にも支えて下さる方である、ということでしょう。

 彼は、「運命を支える方」と語っていますが、「幸運を与える方」と言いません。神はキューピットではありません。幸運を運ぶ方ではありません。「運命を守る方」とも言いません。守るのでなく、「支える方」なのです。

 主は、どんな運命にあろうと支えてくださる方。どんな所に置かれようとその私を支えて、その場で生きる力を与えてくださる方だからです。

 詩編84篇6、7節に、「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。」とあります。広い道とは、真理の道、真理の大通りです。

 どんな運命に置かれようとも、主なる神によって勇気を出し、たとえ細い道や険しい道を行く時も、そこに広い道、真理の大通りが走っていることを見出す人、細い小道においても歴史のメインストリートがそこを貫いていることを見出す人は、何と幸福であろうかと言うのです。その様な人は、たとえ暗澹たる嘆きの谷を通る時にも、そこを泉が湧く所とするでしょう、というのです。

 これは素晴らしい言葉だと思います。どこに置かれていても神によって勇気を出し、そこに永遠の真理の道を見ている人は、「嘆きの谷を、泉が湧く所とする。」こんな素晴らしい信仰はありません。

 三浦綾子さんは生涯旭川に住んで、地方から真理を見つめながら大切なものを全国に、いや世界に発信されました。たとえ嘆きの谷に置かれても、主なる神によって勇気を出す者は、そこを泉あるところとするのです。

 「逆境の恩寵」というのがあるのです。逆境をも神のプレゼントとして、そこに恵みの道、真理の道を見つけ出す人たちがいるのです。主にあっては、逆境の中でも恩寵を見出すことを可能にしてくださるのです。このような方は他にあるでしょうか。

 だからこそ、6節は、「測り縄は麗しい地を示し、私は輝かしい嗣業を受けました」と言うのです。どういうことかと言いますと、神は、私にとって好ましい測り縄で測ってくださった。私は輝かしい嗣業、相続財産を受けました、ということです。

 そもそも人間は、人の測りで測り切れるものではありません。人々は相対的な測りで人を測りますが、神は人をもっと大きな測りで、絶対性の測りで測ってくださるのです。それは憐れみの測りです。

 キリストの罪の赦しは、全ての人の罪を赦す、特別大きな愛の測りです。その愛の測りで私たち全てを包み込むために測ってくださるのです。一人も漏れないようにと。  (つづく)

 2007年12月30日
                              板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、スコットランドの平和の翼の下に立って、まあ、ケンカしいしい仲良く行きましょう。)