「東方の博士たち」 (上) マタイ2章1-12節


                                 (1)
 救い主の誕生を最初に拝みに来たのはユダヤ人でなく、東方の占星術の博士たちであったと今日のマタイ福音書にありました。これは非常に興味深いことです。

 占星術というといささか眉唾ものの感がありますが、彼らは古代の科学者であり、天文学者・物理学者・数学者であると共に、人生と運命を占う宗教家でもありました。伝説では、東国の王たちであったとも言われます。ですから彼らは、当時の最高の知識人であり、学者であり、指導者であったということでしょう。

 しかしユダヤ人からすれば、東方の人々というのは汚れた人であり、神の救いから漏れた、眉唾ものの人たちでした。

 ところが、新約聖書は冒頭で、東方の人たちがメシアを尋ねてはるばる旅をして来たというのです。当時、宝物を携えて長い旅をするというのは、大変危険なことでした。命を奪われる危険をはらんでいました。しかし彼らは救い主を、真理である方を求めて、冒険の旅をして来たのです。

 ここに聞くべきメッセージが先ずあります。1つは、新約聖書の冒頭で、キリストの福音はユダヤ人と外国人とでいささかも差別しないと語ろうとしていることです。キリストにおいては、ユダヤ人も異邦人もなく、男も女もない、民族や人種の差別もないのです。「神は、石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになる」とイエスは言われましたが、神の民と自称していたユダヤ人でなく、見下げられていた東方の異邦人たちがユダヤ人の王としてお生まれになるメシアを探しに来た、国や民族によらず、彼ら異邦人の中にまことの神の民がいるということでしょう。

 ルカ福音書2章に、年老いたシメオンが幼子イエスと出会った時、「今こそ、私を安らかに去らせて下さいます。この目であなたの救いを見たからです。これは万民のための救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と語ったとあります。

 クリスマスの光は、万民の上に輝いた。イスラエル人も異邦人をも照らすまことの光であるということを、今日の聖書は先ず語っているのです。

 そして更に、福音は真理を求めるあらゆる人たちを惹きつける、ということです。キリストの真理は、国境や民族やあらゆる垣根を越えて、宗教の垣根さえ越えて真理を求める人たちを惹きつけてやまないものである、ということでしょう。

                                 (2)
 ところが、3人の博士たちがエルサレムに着いて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねた時、ヘロデ大王エルサレムの人たちも皆、不安を抱いたのです。ヘロデ王家が覆される時が来るかも知れないと感じて、都の中に動揺が走ったのです。

 ヘロデ王は、民衆に支持されたり、神のみ旨によって王になったというような人間でなく、多くの人を殺して王座を奪い取った人物です。肉親も殺します。側近も殺します。そして強い猜疑心のために、愛していた妻マリアンメをも殺していきました。だからこそ、突然沸いた博士たちの来訪に、非常に警戒を強めたのです。

 彼は、祭司長や律法学者たちを招集して、メシア、キリストは「ユダの地ベツレヘムに生まれる」という預言を聞き出すと共に、占星術の博士たちを「ひそかに」呼び寄せ、「見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と言って、送り出したというのです。

 無論、拝もうなんて気持はこれっぽっちもありません。ヘロデの抜け目ない企みです。幼時のうちに、摘み取ろうとしたのです。

 イエスは万民の救いのために来られたのですから、ヘロデ王の救いのためにも来られた筈です。しかし、彼は不安を抱きました。競争心を掻き立て、憎悪の火を燃やしました。恐れたのです。キリストをさえ競争相手に仕立てる罪というのがあるのです。

 だがキリストの存在のあり方は、実に謙遜です。そこにキリストの素晴らしさがあります。世界の王でありながら、ヘロデのように権力を振り回したり、力で支配したりするために来られたのでなく、仕えるために来られたのです。死にいたるまで、しかも十字架の死に至るまでです。そこに罪の人間の的外れがあります。本当の王は、強要せず、押し付けず、愛されるのです。

 夫も妻も、互いに力でやっちゃあいけない。子どもに対してもです。愛で勝負しなきゃあいけない。勝負という言葉はおかしいですが、愛で心を溶かさなくっちゃ…。これは自分に言い聞かせなきゃならないことですね。ヘロデだけではありません。罪の中にいる時、罪から離れない時、私たちもヘロデのような姿になってしまうことがあるんです。

 それに比べ、ユダヤ人たちが軽蔑していたこれらの異邦人たちは、真理をたずね求める、まことに求道的な人たちでした。博士というのは、真理への探究心の強さを持つからではないでしょうか。

 博士号を持っているとか、ドクターだとか、そういう称号が大事なのではありません。箔をつける必要はない。一個の人間として、真理を尋ね求めることにおいて、いつまでも青年のようでありたいですね。死ぬまで真理を求めつづける。それが本当の人間です。  (つづく)

  2007年12月23日
                             板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、コルマールのウンターリンデン美術館のイエス誕生の絵。この絵を見たとき、私の心に突然きよらかな音楽が流れました。音楽が聞こえるほどの絵に接したのは初めてです。写真の写りが良くないのが残念ですが、本物は聖母子も音楽を奏でる天使たちも喜びで光り輝いています。)