洗礼 (下)  ローマ6:1-11



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 ですから洗礼は新生です。新しく生まれることです。「誰でも、キリストにある者は、新しく創造された者なのです。見よ。古いものは過ぎ去った。全てが新しくなった」と、聖書にある通り、新しい創造が私たちの上に起ることです。それが皆さんの上に起るのです。

 今日の10節に、「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられます。そのように、私たちも罪に対しては死んでいるが、キリストに結ばれて、神に対して生きているのです」とありました。

 洗礼を受け、水から上がって太陽に向かって進んでいくように、今後は罪に向かってでなく、神に向かって、キリストに向かって進んで行くのです。

 誘惑も不安も試練もあるかも知れません。失敗もあるでしょう。だがそれらに目を留めず、「あえて」キリストに向かって進んで行くのです。悲観的なことが周りを取り囲み、魂が試されるでしょう。しかし、そういう試みを通して神が果たそうとしておられる「善きこと」が必ずありますから、あえて喜ぶのです。すると悲観的なものが溶けて行きます。

 神は、神を愛する者を決して置き去りにされません。信じる者と共に働いて、万事を益に変えてくださるでしょう。

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 洗礼は、神が私たちを受け入れ、「義」として下さることです。罪をお赦し下さることです。神によって義とされたのなら、神との間に平和が与えられます。そして神との間のこの平和は、私たちの足を健やかにします。

 ブラザー・ロジェは、心の平和をもって生きる時、周りの人々に生きる喜びをもたらします。だが、心配の内に沈むことは、キリストの福音を生きる道にはなりませんと言っています。

 キリストが世を去って行かれるとき弟子たちに、「私は平和をあなたがたに残し、私の平和をあなたがたに与える。心を騒がせるな。おびえるな」と、おっしゃいました。失敗や落胆、また自分の罪や人との衝突などが肩に重くのしかかる時にも、神との間、キリストとの間で与えられる心の平和が、歩みを軽やかにしてくれるのです。

 錯綜した複雑な社会に私たちは生きていますが、単純に神の平和に信頼をおいて生きるのです。すると、人知では測り知れない神の平和がやってきます。すると、私たちの生活に静かな喜びが入ってきます。喜びが静かに湧いてくるのです。この単純な神への信頼が現代人にはとても大切です。シンプル・ライフとは物のシンプルさだけでなく、心のシンプルさ、単純素朴さをもつことが大事なのです。神への信頼によって心が澄むのです。

 現代人の不安の深淵はとても深いですが、主に結ばれるとき、主から与えられる心の平和と喜びが、不安の深淵を埋めてくださるのです。人の力ではとうてい埋められない深い闇の淵も、神が送ってくださる平和と喜びは、それを埋め尽くして余りがあります。まるで、「2匹の魚と5つのパン」の奇跡が、5000人の空腹を満たしたように、深い闇の淵を埋めて下さるのです。

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 洗礼は、形式的な儀式ではありません。繰り返して言いますが、それは、今日の3節にあるように、「キリストに結ばれる」ことです。キリストと結ばれるために洗礼を受けたのです。

 イエスヨルダン川で洗礼を受けられました。水から上がると、神の霊が鳩のようにイエスの上に降って、「これは私の愛する子。わたしの心に適う者」という声があったと書かれています。

 洗礼によってキリストに結ばれると言いましたが、結ばれることによって、いわく言い難いことですが、洗礼を受けた皆さんにも「これは私の愛する子。私の心に適う者」という声が、掛けられるのです。今日の聖書に「あやかる」という言葉が何回か出てきますが、キリストの洗礼の恵みにあやかって、「これは私の愛する子。私の心に適う者」とされるのです。

 (上の写真を)ご覧下さい。今日洗礼を受ける方の中には、エジプトで発見されたこのイコンをご覧になるのが初めての方もおありでしょう。キリストが、メナというこの信仰者の肩に手を置いて、「これは私の愛する子。私の心に適う者」と語っています。キリストの顔は穏やかで平和に満ちています。どこかしら希望があふれています。

 しかしよくご覧下さい。辺りは荒涼とした砂漠です。岩山には一本の木すらありません。平地も同様に木も草も見当たりません。しかし、キリストの顔は輝き、穏やかで、穏やかにキリストはメナという傍らの人と肩を組んでいるのです。キリストから彼の肩に手を廻し肩を組んでいます。それで肩を組まれているこの人も、荒れた環境に置かれながら平和を与えられています。彼はお風呂から上がったような明るい満ち足りた顔をしています。(掲載の写真の写りは良くありません。あしからず。)

 何と仲の良い二人でしょう。キリストは彼を「子」と呼んでおられます。ヨハネ15章15節では、弟子たちに、「私はあなたがたを友と呼ぶ」とさえ言っておられますから、彼にも「私の友」と呼んでおられるのかも知れません。

 この信仰者は私たちのことです。洗礼を受けられた皆さんです。本当は、まだ洗礼をお受けになっていない方々にもキリストは「子」と呼び「友」と呼んでおられますが、まだそのことにお気づきになっていないだけです。イエス・キリストは私たちと教会の主であると共に、世界の主であり、神でありますが、私たちを「子」と呼び「友」と呼ばれるのです。

 ですから、キリストが私たちの傍らに立って、「これは私の愛する子。私の心に適う者」と語り続けて下さっていることを覚えていきましょう。私の良心が私自身に向かって、お前は甚だしく罪に染まっている、あらゆる悪に向かう傾向があるといって責めたとしても、また、私自身は神の前に出れるような功績を何も持っていなくても、ただキリストの憐れみを受けようとする者には、「これは私の愛する子。私の心に適う者」と優しく、だが断固として語り続けて下さるのです。

 このローマ書の先のほうの8章では更に、私たちに対するキリストの愛から、どんな者も引き裂くことはできない。艱難も苦悩も、迫害も飢えも、剣も引き離すことはできないし、死も生も、天使も支配者も悪魔も、力あるものも、高いものも、深いものも、その他どんな被造物も、私たちとキリストの間を引き離すことはできない、と言われています。

 イコンに見えるキリストのこの平和な顔は、私たちに対するこの愛を雄弁に物語っています。

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 私たちは強くありません。洗礼を受けて属する私たちの教会は弱い者が集まった共同体です。強がる必要はありません。素顔のままでいいのです。気張らず、素顔でキリストの前に出ればいいのです。そして私たちは互いに赦すこと、祝福し合うことで一つに結ばれて行くのです。教会は赦しと和解と祝福の共同体です。そして、キリストは、私たちの弱さの中でその力を発揮してくださるでしょう。

 2007年12月16日
                                板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、「キリストとメナ師」。4cm程の厚みの木板に描かれています。ルーブル博物館のコプト展示室にあります。)