洗礼 (上)  ローマ6:1-11


                                 (1)
 先ほど洗礼をお受けになった方々に一つの言葉をお送りいたします。それは、昨日発見したのですが、この洗礼盤が入れられている木の箱に記されていた言葉です。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を完成してくださると、私は確信しています。」毛筆で書かれていました。

 洗礼は完成ではありません。信仰の第一歩です。洗礼を受けるきっかけは、それぞれの方で違うでしょう。しかしその思いを起こして下さったのは神様です。夏前から準備をしていた方もありますが、少し前までこういう決心をするとはご自身でも思いもよらなかった方もあられます。

 神様が、皆さんの中に働いて、「善い業を始めて下さった」のです。今、始めて下さったのですから、洗礼によって何かが完成して一件落着したのではありません。信仰の一歩を始めたのです。その道は、茨の道を行くことがあるかも知れませんが、皆さんの中で善い業を始めて下さった神が、キリスト・イエスの日までに、その業を完成して下さるでしょう。

 皆さんが完成させるのでなく、神が皆さんの中で働いて完成して下さるのです。そのことをして下さる神への絶対的な信頼、必ず救いの完成まで持ち運んでくださることに、静かな確信を持って進んで行って下さい。

 色々な山や谷があっても、望みを捨てないことです。ヘブル書に「神のみ心を行なって、約束のものを受けるために、あなたがたに必要なのは忍耐である」という言葉があります。望みをもって忍耐していくなら、必ず善い実を結びます。主の業に常に励んでいってください。牧師であっても、色々な試練や困難があります。誤解されることも、中傷されるあります。しかし忍耐をもって主の業に励んでいく時、やがて主の恵みの大きさに触れることができます。ですから、「主に結ばれているなら、私たちの苦労は決して無駄にならないことを、あなたがたは知って」いる、と別のところに書かれています。

                                 (2)
 さて、現在のトルコに、今も残る洗礼に使われた古いプールがあります。それは固い岩に掘られたプールです。

 洗礼は、早朝、太陽が東の空に昇る前に集まって行なわれたようです。受洗者たちは階段を降りて洗礼のプールに入って行きました。そして、洗礼の水につかって、先ずは、十字架のキリストの名において水の中に頭まで沈められ、次に、復活のキリストの名において水の中から引き揚げられました。そして水から上がると、今度は、向こう側の階段から地上に上がって行ったのです。

 今日のように晴れていると、階段を上がる頃、丁度朝日が東の地平線から上がる時刻になっていました。こうして洗礼者たちは、昇る太陽に向かって進んで行き新しい太陽が彼らを照らしたのです。

 無論ここには一つ一つ意味がありました。先ず、太陽が昇る夜明け前の暗さは、洗礼を受ける人たちが歩んで来たこれまでの暗い情況です。

 「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という言葉が、クリスマスに読まれます。その暗闇や死の陰の状況です。

 12月には全国あちこちでヘンデルメサイアが演奏されます。私は前の教会にいた時、16年にわたって毎年、教会と市民の人たちでメサイア演奏会を礼拝堂でしました。200人以上の人々が聴きに来られました。そのメサイアの中で、バスの独唱者がこの言葉を歌います。

 「暗闇…死の陰の地。」あるいは色々な不安。憎しみに囚われていた人もありました。罪を犯し続けてきた人もあったでしょう。死の不安におびえる病者もいたでしょう。誘惑に弱い人もあったに違いありません。

 テトス書3章で、キリストに出会う前の私たちの姿が、「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです」と書かれていますが、そういう闇です。夜明け前の暗さは、キリストに出会うまでの人生を象徴していました。

 しかし、彼らは今、キリストの名において水に沈められたのです。それは今日の3節にあるように、キリストに結ばれてキリストの死に与ることです。洗礼によって、キリストと共に古い罪の存在が葬られ、キリストの死に与って十字架につけられて殺されるのです。ルターは、キリストと共に殺戮されることだと、一段と強い言葉を使っています。

 沈められたのであって、自分で沈んだのではありません。古い自分は一度殺されなければなりません。だが、私たちは自分に死のうとしてもなかなか死ねません。死んだふりはできても、自分に死ぬ事はなかなか難しい事です。だが、キリストと共に葬られたのです。ですからその死は、恵み以外の何ものでもありません。神が、罪もろとも、罪の私たちをキリストと共に十字架につけて葬って下さるのです。洗礼とはそのことです。

 しかし、その直後、キリストの名において、水の中から引き揚げられるのです。葬られることが洗礼の最終目的ではありません。そこから新しい世界へ引き揚げられることが目的です。神が引き揚げてくださるのです。神が滅ぼし、神が甦らせて下さるのです。

 4節以下には、「キリストが、神の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。洗礼によって、キリストに結ばれて、その死の姿にあやかった私たちは、その復活の姿にもあやかるのです」とある通りです。  (次回につづく)

  2007年12月16日
                                板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、クラコー(ポーランド)のクリスマス・ツリー。)