知と愛 (下)  コリントの信徒への手紙13章1-3節



                                 (3)
 キリスト教信仰は、歴史に根ざしています。抽象的なものや観念的なもの、むろん空想の産物ではありません。

 今日はアドベントの第2週です。私たちが待っているのは単なる神の言葉でなく、肉をとりたもうた神の言葉です。ナザレのイエスとなって受肉された神の言葉です。歴史の中に入って来られた神がキリスト教信仰の原点です。そして、キリストが私たちの罪の贖いの子羊として十字架で屠られました。十字架の事件が、私たちの救いのアンカー(錨)として歴史の中にどっしりと降ろされました。この事件が原点です。

 私たちは現実に肉体を持って生きています。ですから信仰が生き方となって現実生活の中に現われ、実生活のなかっで姿をとり、キリスト教倫理となっていくのです。信仰と倫理(生き方)は切り離すことはできません。

 今日の聖書は、「たとえ人々の異言や天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいドラ、やかましいシンバル。たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていても、山を移すほどの完全な信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい。全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ私に何の益もない」と語っています。

 「人々の異言」とか「天使たちの異言」というのは、言葉を変えれば、図抜けた秀でた言葉や人々の心をときめかせ魅了する言葉と言ってもいいでしょう。たとえそんな天使のような素晴らしい才能を持って多くの人を酔わせる言葉を語っても、愛がなければ何にもならないのです。

 多くは必要ありません。ただこの一点を欠くなら全く無意味だというのです。言葉は生き方を通して体現されなければ空しいのです。

 また、預言をする賜物とは将来のことを予言したり、神さまの言葉を語ったりすることです。現代は情報化時代ですが、いろいろな知識や情報を駆使して働く非常に優秀な人たちがいます。また、知識人ばかりでなく大変強固な信仰を持つ人であっても、愛がなければこれまた無に等しいとパウロは言います。信仰があっても、愛がない信仰は空しいのです。

 更に、貧しい人たちに全財産を施したり、「わが身を死に引き渡す」ほどの犠牲的で、献身的なことを、愛を持たないですることがあるというのです。「誇ろうとして」と書いています。目立たないように隠れて行なっているということを誇りにする場合だってあるでしょう。いずれにしろ、愛なしにしているとすれば、何の益もないといいうのです。

 信仰や知識が、実践や倫理から切り離されるなら空しいのです。

 ヘルマン・ヘッセは、「知と愛」という小説を書いています。ナルチスという精神と知の世界に生きる人と、ゴルトムントという愛と感性の世界に生きる人とを、対極的に際立たせて描きました。「知と愛」の衝突、「知と愛」の矛盾相克を描いています。ただこの場合の愛はエロスの愛です。

 パウロは、アガペーの愛を書きました。

 パウロは愛を説きますが、知を不要だとは言いません。知識に反対しません。どうしてこれほど知的な人物が知識に反対するでしょうか。ましてや信仰を不用としたり、人への奉仕や犠牲を軽視しません。

 彼は、信仰が知性や理性を越えて行くことがあるのを知っていますが、それでもそれらに反対するのでなく、信仰は愛と理性を統合する大きな力であると考えています。

 信仰が知性や理性を越えて行くことがあると言いましたが、先週は驚くべきことが起りました。それは私の理解を越えました。一人の方の洗礼はかねてから準備されていましたが、この一週間の間に次々と洗礼を希望される方が現われて、今日の臨時役員会の様子では、もしかすると来週は4人の方が受洗されるかも知れません。役員の方もこのことはまだご存知ありません。私自身昨夜までそんなことがあるとは思いませんでした。

 洗礼を受けるのに、「洗礼志願書」というのを書いて印鑑を押して提出していただいていますが、用紙が足りなくなりました。慌てて印刷しました。理性を超えたことが起っています。「皆、気は確かか」と言いたい。一時的な熱に浮かされて変なことをしちゃあいけないですよ。しかし、87歳の方まで言い出されたのですから、青臭い一時的なカブレとは言いがたいことです。

 信仰は知性や理性も超えて行きますが、それに反対するものでも矛盾するものでもありません。パウロは知と愛とを結びつけ統合して行くのです。真の信仰は知と愛を統合します。隣人愛において知が働き、知を通して隣人愛が深められて行き、具体化し、実際化し、生活になり、生き方になる。そのような愛へとキリスト教信仰は導きます。

 「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」のです。

 ですから、どうして私たちの信仰が、人々の間に宿ることを切に求めないでおれるでしょうか。「宿る」とは住むことです。聖書は「心を込めて愛し合いなさい」と言いますが、心を込めた愛となって隣人の間に宿り、彼らの間に信仰が住み着くようになることが、キリストの示された信仰です。

 信仰は感傷ではありません。パウロは今日の続きで、「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。愛は決して滅びない」と書いています。

 ここには何ら感傷はありません。現実的で、実際的で、理性的です。このような眞の愛をもって愛する人は決して間違った信仰に誘われ行くことはないでしょう。ここに決して滅びない真理があり、決して滅びない愛があります。一度本物に出会った人は、何が本物で何が贋物かを見分ける洞察力を身につけるからです。

 私たちは愛の説明でなく愛することが大事です。愛についての評論家でなく愛を行なうものになりましょう。

   2007年12月9日
                               板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ホントネー修道院と微笑みあう聖母子像。)