知と愛(上)  コリントの信徒への手紙13章1-3節



                                 (1)
 著者のパウロはこの手紙を通して、教会とは何か、私たちは信仰生活を共同でしていますが教会共同体とは、信仰共同体とはどういうものかを語っています。

 そのことは1章からすでに明らかで、洗礼を受けてキリスト者になることを「キリストに結ばれる」という言葉で言い表わしながら、キリスト者一人ひとりはキリストの手や足、目や耳などキリストの体の各部分を形づくっているのだから、「皆、仲たがいをせず、心を一つにし、思いを一つにし」なさい。自分勝手なことを言わず、「固く結び合いなさい」と勧めました。今日の少し前の12章27節には、「あなたがたはキリストの体であり、また一人ひとりはその部分です。神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました」とあるのもそのことを語ります。

 今から1500年ほど前のドロテウスという信仰者は、私たちは中心を持つ円のようなもので、一人ひとりはいわばその円周に立っていると言うのです。それで、それぞれが円の中心であるキリストに向かって進めば進むほど互いに近づき、心と思いを一つにした交わりを持って固く結び合っていくと言っています。

 教会共同体の中心におられるキリストは私たちに自由をお与えになる方です。キリスト教の救いとは、自由にされることだとガラテヤ書は語ります。ただキリストの与える自由は自分勝手とは違います。自分勝手というのはキリストが中心になっているのでなく、自分が中心であり、自己中心だから自分勝手なでしょう。何が中心かは極めて重要です。

 会社は営利追及のために一丸となって働きます。前の教会にいた頃、町のあるメガネの全国チェーン店の店員さん達が朝の始業前に、お店の中でなく道路に出て、声を揃えて大声で「私たちはお客様に笑顔で接します」とか、10ほどの社訓を叫んでいました。もう狂気としか言いようがない光景でした。あれで一つになろうとしているのでしょう。先日、近くの大山公園で、別の食品系の全国チェーンの会社の14,5人が大声でやっていました。20代の新入社員に言わせているんでなく、4、50歳のいいオッサンが声を張り上げていました。人生って何なんでしょうか。やっぱり食べるために生きているんでしょうか。

 その点、牧師というのは楽だなあと思います。あんな空しいことをさせられなくて済みます。教会の坂の下に立って、毎日、「牧師は人に笑顔で接します」なんてやったら、まさに狂気というか名物になるかもしれません。但し救急車が来て病院にお入りくださいということにもなるでしょう。

 イラクに派遣された自衛隊員の16人が自殺しています。今、日本では耳を疑うほどのことが起っています。非常なプレッシャーをかけられているに違いありません。

 何を中心にするかで、自由と喜びの生活が待っているのかそれとも狂気に近いものになるのかということです。

                                 (2)
 キリスト教信仰というのは、思想でもありますから理論的なところや哲学的な側面はあります。しかし、パウロは信仰を理論的なものに限定しようという考えに反対しました。

 単なる思想であれば、私たち各自は「キリストに結ばれ」ているという血の通ったものがお互いになくなります。そうなると個人主義が強まり、色んな考えに分かれて争い、分裂が起ってしまうでしょう。

 12章でパウロが語るのは、身体は有機体なのに手と足とが互いに批判しあったら決して一つになれないということです。ましてや非難し合ってどうして一つになれるでしょうか。手と足では第一に形状が違います。身体についている位置が違いますし役割が違います。それを、お前の姿はおかしいとか、お前のしているのはケシカランなどと言い出したら切りがありません。

 手はいろいろの表情を表わします。怒りの表情、親しみの表情、和解の表情、拒絶の表情などを表わせます。無論足も怒りとかいろいろの表情を表わせるでしょうか。悲しみを足はどう表わせばいいでしょうね…。

 もし手が手独自の思想を展開し、足が足独自の思想を主張しあって争えば、身体は解体するでしょう。しかし、それぞれが身体全体に仕えていることを認め合えば一切は解決するわけです。パウロはそのことを目指すのです。

 「多様性の一致」ということです。互いに相手を認め合うのです。疑いの目で見ないのです。信頼を創り出すのです。「多様性の一致」という言葉は今では普通になりましたが、私が最初に聞いたのは1970年代の初めでした。テゼ共同体を通してでした。それは新しい光が世界に差し込んで来たように大変新鮮でした。

 「あなたの隣人がどのような思想、主義であっても愛する」ということです。愛とは、キリストがその人をご覧になるように見るということです。この愛が働くところに多様性の一致が生まれます。すると一人ひとりがキリストの徳を建てるということにおいて自分を十分に発揮していくことができます。

 イエス・キリストが啓示し、人々に表わされた神は、全ての人、全人類を集め続けられる神です。ローマ書11章は、「全てのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」と語ります。

 全てのものが向かっている最終目標は、それぞれが自覚しているかどうかは別ですが、神だとパウロは断言します。それだけでなく、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」のを待っているとさえ書いています。私たちの信じる神は、全人類だけでなく、全被造物をもみ手の中に一つに集め続けられている神です。

 ですから、私たちの信仰の賜物は神様の最終的なプランのために用いられ、「多様性の一致」という方向に仕えるものでありたいものです。


   2007年12月9日
                                板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  (今日の写真は、プロテスタント教会でしょうか。ノー。一切の装飾を排したこの教会は、中世以来カトリックの中で大きな影響を与え続けてきたホントネー修道院の教会。聖ベルナルドスはマリア像も排除しました。1100代に造られたその修道院には畑だけでなく溶鉱炉もありました。「ほんとネー?」。
    ホントネーについては次のブログもご覧下さい。http://blogs.yahoo.co.jp/mas_ta4271/28267675.html