今日からクリスマスを待とう(下)  マタイ7章7-11節



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 さて、イエスは話を更に先に進めて、「あなたがたの誰かが、パンを欲しがる自分の子どもに石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良いものを与えることを知っている。ましてや、あなたがたの天の父は求める者に良いものを下さるに違いない」と語られました。このところはルカ福音書では、「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」となっています。

 「あなたがたは悪い者でありながらも」という言葉を読んで、聞き捨てならないように感じられる方はないでしょうか。ただこれは私たち人間を中傷した言葉ではありません。そういう偏見を持っておられるのではありません。「あなた方に欠けがあっても」という意味です。神様の尽きることのない気前よさ、その寛大さに比べると、私たちの愛の貧弱さ、ちっぽけさ、憎しみにもなる愛をもつ私たちの姿を語っておられるのです。

 そして、人間の愛情は欠けの多いものであっても、子どもたちに必要なものを見つけてきて与えることができるとすれば、慈愛豊かで全能でもあられる神に対して、子どもが親を信頼する以上にもっともっと信頼していいのでないか。主なる神は信頼するに足る方であると言うことです。

 「あなたがたの天の父は求める者に良いものを下さるに違いない」というのです。「良いもの」とは、良質のもの、優れた良品ということです。「良品の店」というのがありますが、最近は老舗の牛肉も饅頭もチョコレートも、耐震強度原発の発表も、信用できるのかと疑いの目で見てしまいます。しかし、天の父の与えられるものは疑いなく良いものです。

 ルカはそれを、「聖霊」というわけです。確かにガラテヤ書5章を見ると、聖霊が信じる者たちの中に結んでくださる実、果実が9つ上げられています。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です。

 これほど良質のものはありません。神に求め、探し、門を叩いていくなら、人の品性に関する良いものを下さるとルカは言おうとしているわけです。

 親は、子どもがお菓子やおもちゃだけでなく、やがてはそれ以上の良いものを求めて欲しいと願っています。神様も、私たちの身近に必要なものだけでなく、それ以上の良いものを求めることを望んでおられるのです。人間は人格ですから、真に私たちの人格に必要なものです。あるいは人は生命そのものですから、命の根源となるもの、魂を生かす根源的なものを与えようとして、それを求めてくるのを欲しておられるのです。

 先ほど申しましたように、今日からクリスマスを待つアドベント待降節が始まります。これは、神が人間にとって命の根源であるもの、命に不可欠なもの、ルカの言葉で言えば「全ての民に与えられる大きな喜び」をお与えくださるのを待つ時です。そういう人類全体の原点、根源的な救いの源の到来を待つのです。人の命を超越した神の国を待つのです。

 今日の聖書でイエス様は、初めは人々の日常的な求めに焦点を当てておられますが、やがて「天の父」を指し示すことへと向かわれます。本当に永続し、揺るぎない、大切なものは、神へのキリストへの信頼を増し加えることです。たとえ私たちの祈りにすぐに答えられず、はっきり分かる答えがない時にも、「求め、探し、門を叩く」とこによって私たちは元気が与えられ、神への信頼を成長させていくでしょう。

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 今日からクリスマスを待ちましょう。先ほど、「主を待ち望むアドベント、最初のローソク灯そう…」と歌いました。

 アドベントという言葉は、アドベンチャー、冒険という言葉と親戚関係にあります。冒険野郎の冒険です。どう関係するか。アドベント、神のみ子の到来の出来事は、他でもない神様の冒険の出来事であるからです。ご自分のひとり子、愛する子どもを与えるほどにこの世を愛するという神のとんでもない冒険です。ひとり子が殺された親というのは、本当にたまらないでしょう。発狂しそうになるでしょう。だがそのようなことを神はされたのです。しかも信じる者が生まれるか、生まれないかわかりませんが、神は冒険を冒して私たちにご自分をお与えくださったのです。これ以上の冒険はありません。全財産をすっかりはたいて年末のジャンボ宝くじを買うような冒険です。

 この神の愛が無駄にならないように、私たちはしっかり信じて行きたいと思います。

 「主を待ち望むアドベント」というのですが、「待ち望む」という言葉は日本語では「待つ」という意味が強いです。しかし旧約聖書では「待ち望む」という語は、綱や縄、紐(ひも)や糸に関係をもつ言葉で、「待ち望む」とは待つ対象に激しく絡み付いていく有様をいうのです。絡み付いて相手を強く引き寄せるのです。人を超えた未知なる方、キリストを世界に引き寄せようとするのです。

 すなわち、私たちが主のご降誕を待つのは、対象が私と出会ってくださることを激しく待ちながら、やがて自分の中に思いがけない新しい主体が入ってくること、新しい未知なる者が私たちと出会って創り変えてくださることを待つことです。

 今日からクリスマスを待ちましょう。分かり切ったものでなく、神の冒険というこれまで歴史になかった熱い人格的な思いがけない愛の方に出会って、私たちの中にこれまでにないものが生まれ出ることを待ちましょう。すなわち、イエス・キリストという新しい人、愛深い方、希望をもたらす方、平和に満ちた方、寛容で親切な方、柔和でたくましく善意に満ちた方が私たちの中に生まれてくださることを、今日からご一緒に待ちましょう。

   2007年12月2日
                             板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ヴェズレーのcrypte;地下礼拝堂は真っ暗。その石畳は千年にわたってここを訪れた巡礼者たちの靴ですっかりすり減っている。)