今日からクリスマスを待とう(上)  マタイ7章7-11節



                                 (1)
 イエスは、「求めよ、探せ、門を叩け」と語られました。イエスの語られることは積極的です。「果報は寝て待て」というような、あなた任せの消極的態度ではありません。

 最近10代の少年たちの間にステロイド剤の一種である筋肉増強剤を飲むことが流行っています。筋肉隆々になって男らしくたくましい身体になれるというので、特にスポーツ少年などの間に広がっているということです。ただこれはイギリスの話です。

 しかし今は世界が殆ど同時進行していますから、私の目にまだ触れませんが、日本の子どもたちの間に覚せい剤が広く浸透しつつあるように、筋肉増強剤も浸透していると思っています。マスコミがまだ取り上げていないだけかも知れません。

 なぜ筋肉増強剤を飲むのか。スポーツで強くなりたいと共に筋肉隆々になって女の子にモテタイためなのです。筋肉がつけば、野球でもサッカーでも格闘技でも強くなる可能性がありますが、それと共に女の子にもてたいという願望は思春期の少年たちの本能的な願望です。私なども少年ならすでに手を出しているかも知れません。

 ボス猿はメス猿の前で最強であるのを見せなければなりません。ライオンも狼も、雄は雌を獲得するため他の雄と戦うそうですから、もし彼らが筋肉増強剤というのを知ったら欲しいでしょうね。

 とにかく水面下でこういう薬が少年たちを蝕んでいるそうで、その主な副作用の一つは初期には攻撃的になり、やがては何と「精子が減少して男性が女性化する!」のです。他にも怖い副作用があります。

 それにしても筋肉増強をしようと薬に依存するわけで、男性らしい身体を切に「求め、探し、門を叩いて」いるように見えて、薬で果報を手に入れようという薬への依存なのです。

                                 (2)
 イエスは、あなたが何かを願っているなら、神に「求めなさい、そうすれば与えられる」と言われました。祈りは手品やマジックではありません。特別な秘訣や準備や行動は不要です。率直に単純に神に求めることです。神に率直に求めることは、棚からぼた餅が落ちてくるのを待つようなことではありません。

 ですから、イエス様は「探せ」と言われるのです。探すためには時間が要ります。今卒論を書いている人がいますが、書くために資料を探さなければなりません。それに時間がものすごくかかります。時間をかけても見つかるとは限りません。指導教授がいるわけですが、でも限界があります。「探す」と言うことはとても努力が要ります。

 しかし、必ず見つかると望みを持って探すときには探すことが喜びになり、やがては目指していたものを見つける喜びに与ることができるでしょう。

 先日の旅行の話になりますが、成田から飛行機に乗った時に私がハタと気づいたのは、家の玄関の鍵がないと言うことでした。妻にはなかなか言い出せずに困りました。妻は鍵を持たずに先に出て、私が戸締りして急いで出て来たのです。

 急ぎ過ぎると心がお留守になるんですね。無論暫くして妻に言いましたが、フランスに着いて飛行場で大きなスーツケースを派手に開けて思い当たる所を何度も探しましたがないのです。

 どこで落としたのか、急いで飛び出ましたが鍵を挿したまま出たとは思えません。家の前とか坂を下るまでに落としたとなると、これは大変のことになっているかも知れません。和子さんに電話して、勤めの帰りに家の前を探したり用心して家の中に入ってもらおうと思うんですが、まごついているうちに携帯電話がかからない田舎に来てしまいました。ホテルの電話を使おうとしたら、シーズンオフでお客が少なく部屋から外線が使えない。翌日、テゼに着きましたがそこは更に田舎ですから全く携帯の圏外です。日本に電話をするには向こうのテレホンカードが要りますが、そこでは売っていません。心身ともにくたびれて本当に困りました。

 3,4日目に心を奮い立たせてもう一度隅から隅まで、普段決して入れないところまで探しました。するとそんな所に袋がないと思っていたところに袋があって、その底に澄まし顔で納まっていました。

 「探しなさい。そうすれば見つかる。」牧師であるのにそんな言葉は忘れていたんです。信じて、意思強く時間をかけなければダメだなあと思いました。ただ、あなたはバザーの疲れだけでなく、老人性の認知症が始まっていることをよく認知しなさいと強く言われましたから、今後はこれまで以上に優しくいたわってくれるのだろうと思っています。

 イエス様は更に、「門を叩け。そうすれば開かれる」と言われました。門を叩けと言うのですから、誰かが出てきてくれるのを期待して待てということでもあるでしょう。新しい出会いが起るかもしれないのです。門を叩くということはそういうことです。

 皆さん、今日からアドベント、クリスマスを待つ日が始まります。新しい出会いが起るかも知れないという期待をお持ちでしょうか。既知のものでなく、新しいものとの出会いがアドベントです。それは後で申します。

 イエスは、「誰でも求める者は受け、探すものは見つけ、門を叩く者は開かれる」と約束されました。イエスユダヤ人ですから、ユダヤの言葉の慣例に従って「与えられる」「受ける」「開かれる」と受身の動詞を遣っておられますが、これは神様の名を出さずに神様がしてくださることを言い表わすものです。「誰でも求めるなら神がお与え下さい、探すなら神が示してくださり、門を叩くなら神が開けてくださることを言い表わすものです。

 神に求めていくなら必ず解決してくださる。思い煩うな。命のこと、明日のことまで思い煩うな。6章でそのことが出ています。明日のことは明日になって道を示される。今日は、今日一日の苦労で十分である。先の方まで心配せず、今日を十分に生きよ。子育てでも、将来良い大学に入り、良い会社に就職してくれと将来の素晴らしい子供の姿を愛して、今日の子ども自身を愛していない。これではダメなんです。今日の子どもを今日愛してあげなくっちゃあだ目です。そうすれば十分です。(つづく)

   2007年12月2日
                                板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、東京の教会で一番小さいクリスマスツリー?とアドベントに灯ったキャンドル。)